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「鈴愛と律はどうなる」   [ショート説教]

東京女子大学での奨励 2018年7月20日 マタイ28:16-20

「鈴愛と律はどうなる」  

 皆さん、おはようございます。皆さんは「半分、青い」というNHKの朝ドラをご存知でしょうか。永野芽郁さんと佐藤健さんが出ています。観たことのある方はおられますか?
 
 永野芽郁さんが演じる、主人公の鈴愛という女の子は、子どものころ、病気で片方の耳が聞こえなくなってしまいます。けれども、雨が降っているとき、片方の耳には雨音が聞こえても、もう片方の耳にはそれは聞こえない、だから、雨が降っていても半分は青空のように感じる、というようなユニークな発想の持ち主で、これが「半分、青い」というドラマの題にもなっています。
 
 鈴愛は高校を卒業すると漫画家に弟子入りして、そのうち自分も漫画家としてデビューして、何作かは雑誌に掲載されたり、単行本になったりするのですが、だんだんと書けなくなり、十年目に才能のなさを痛感し、漫画家を辞めて、今は、100円ショップでアルバイトをしています。

 ところで、鈴愛は、7月7日生まれなのですが、同じく7月7日に同じ病院で生まれた律という幼馴染の男の子がいます。この律を佐藤健さんが演じています。

 ふたりは、小学校に上がる前から仲良しで、おたがいに深いところで結ばれているのですが、高校生になると、それぞれ、別の人を好きになったりします。高校を卒業し、律は大学生になり、鈴愛はマンガの仕事を始めますが、今度は、それぞれ、恋人ができたり、それに近い存在の人があらわれたりします。

 けれども、深いところでは、おたがいに好きなんですね。ある日、数年ぶりに故郷で再会した時、律は鈴愛に「結婚しよう」と言いますが、鈴愛はこともあろうに、「無理」と言ってしまいます。それは、じつは、律と結婚したくない、という意味ではなくて、今はマンガに打ち込んでいる、一人前の漫画家になるまでもう少し待ってほしい、という意味だったのですが、律はふられたと思い、やがて別の女性と結婚してしまいます。

 鈴愛もそれから何年か後に別の男性と結婚してしまいます。今週の放送には、鈴愛の結婚式や新婚生活が出てきます。

 では、本当は深いところで結ばれ、好き同士だった鈴愛と律はどうなるのでしょうか。これは、ネットなどで、いろいろな意見を見てみますと、男女の愛を超えた、深いきずなで結ばれ、生涯支えあっていく、と言う人がいます。

 でも、わたしは、そんなのは嫌なのです。小さいころから、あれほど深い信頼、深いつながりを見せてきたふたりなのに、そして、好き同士だったのに、さいごは、ふたりは男女の仲を超えた良いお友達になりました・・・ではあまりにもつまらないと思います。ふたりは、やはり女性と男性として結ばれてほしいと思います。

 鈴愛と律は男女としては結ばれなかったけれども、おたがい、いつも心の中にいる、おたがい、いつも一緒にいる、どんなときでも、そばにいて、支える、二人は男女の愛より強い愛で結ばれている、そういうのでは、わたしは、満足できません。

 けれども、わたしたちと神さまとの関係は、これで良いのです。女性と男性、あるいは、同性どうしでも、あるいは、性の多様性にしたがった多様なパートナー関係でも、わたしは、好きな人同士がカップルとして、恋愛の成就として結ばれることを、おおいに望みます。

 しかし、神さまとわたしたちの関係は、性に基づいたカップルとして結ばれるものでなく、男女の仲を超えた深いつながり、深い関係、いつも心の中に一緒にいてくれる、どんなときでも、そばにいて支えてくれる、そういう関係で良いと思います。

 聖書を読みますと、神さまとわたしたち人間の関係が、男女の関係にたとえられる個所も少しはありますが、圧倒的に多いのは、親子関係です。神さまが親で、わたしたちが子どもという関係です。あるいは、イエスはわたしたちの友だちという関係です。

 今日の聖書の最後に、イエスのこういう言葉があります。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。これは、性に基づくカップル型の結びつきではなく、親子型、あるいは、友達型の結びつきです。

 朝ドラの鈴愛と律については、わたしはカップル型の結びつきをしてほしいと願っていますが、神とわたしたちの関係は、親子型あるいは友達型の「どんなときでもそばにいる」
という関係であることを聖書から教えられ、ああ、神さまは、恋人ではないけれども、親のように、あるいは、友達のように、いつも一緒にいてくれるのだなあ、と心強く思っています。

 お祈りいたします。
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東京女子大学礼拝堂にて2015年11月2日 [ショート説教]

東京女子大学礼拝堂にて 2015年11月2日 イザヤ11:1-2 「根」  讃美歌96

 皆さん、おはようございます。わたしの母は、生きていれば、80代半ばになりますが、この東京女子大学の卒業生です。もう60年以上昔の卒業生ですね。わたしは、今、キリスト教の牧師をして、25年目くらいになりますが、わたしが今キリスト教の牧師をしている、そのルーツのひとつは、この東京女子大学になるのかも知れません。

 わたしの祖母は、家庭や戦争で大変苦労をして、自分は神さまなど信じられない、けれども、せめて、娘には、神さまを信じられるようになってほしい、神さまを信じる人生を送ってほしい、そういう願いをもっていたそうです。それで、祖母は自分の娘、つまり、わたしの母を、キリスト教の大学である、この東京女子大学に入学させました。

 母はこの大学で英文学を学んだと聞いています。そして、短い期間ですが、東京都大田区の公立中学で、英語の教師をしていたようです。それから半世紀以上経ちますが、いま、わたしの子どもたちが、その中学に通っています。わたしも、中学生のころ、これも、40年くらい前の話ですが、母から英語を教えてもらったことがあります。わたしは、英語はあまり得意ではありませんが、時間をかければ、普通の英文はいまでも何とか読むことができると思います。こんなふうに、母がこの東京女子大学で60年以上も前に英文学を学んだことが、今の、わたしや子どもたちと、なんとなくつながっているようにも思います。

 わたしや子どもたちと、東京女子大学の英文科とのつながりは、まあ、なんとなくと言ったころですが、わたしがキリスト教の牧師をしている、そのことについては、母がこの大学で学んだことと、あきらかなつながりがあります。

 母はこの大学でキリスト教を知り、教会に通うようになり、牧師であった父と出会い、結婚し、わたしが生まれ、やがて、わたしも、神さまを信じるようになり、キリスト教の牧師になりました。ですから、この東京女子大学は、いまわたしが、キリスト教の牧師として生きている、そのルーツ、その根、根っこのひとつだと思います。

 ところで、皆さんは、神さまを信じておられるでしょうか。神さまなんていないと思う、という人はいるかも知れませんが、自分にはルーツがない、自分には根っこがない、自分が今ここに生きている、その起源、根源など、存在しないという人はいないのではないでしょうか。

 東京女子大学のキャンパスは美しいですね。武蔵野を思わせる立派な木がいくつも立っています。どんなに大きい木にも根っこはあります。木は根っこによっていのちを与えられ、根っこから養分や水分を与えられ成長し、木はいまも根っこによって支えられています。

 わたしたちもそれと同じではないでしょうか。わたしたちにも、目には見えない根っこ、ルーツがあり、そこからいのちを受け、そこから生きていくのに必要なエネルギーや温かさや受け、根っこによってしっかりと支えられ、いま、ここに立っているのではないでしょうか。

 目には見えないけれども、わたしたちにいのちを与え、支え続けてくれる根っこ、それを、聖書は、神さま、と呼んでいます。

 今日の聖書に、エッサイの株から芽が萌えいで、その根からひ
とつの若枝が育つ、とありました。株とは、木が切り倒されたあとにも残る切り株のことですが、切り倒された木にも根があり、その根から、またあたらしく芽が出てくる、枝が育つというのです。

 皆さんの中には、卒業を控えている方もおられるかも知れませんが、皆さんは、東京女子大学という株から萌えいでる芽であり、東京女子大学という根から育つ若枝となることでしょう。

 そして、さらに深く掘り下げてみると、皆さんは、神さまという株から萌えいでる芽であり、神さまという根から育つ若枝なのです。

 大木の根っこのように、神さまが皆さまにいのちを与え、皆さんを支え続けてくださる、そう信じたいと思います。

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