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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(61)「見させる者から、見遣る者へ」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(61)「見させる者から、見遣る者へ」

 子どもたちに見せたいものがあります。興味本位の見物ではありません。知ってほしいことがあるのです。被災地のこととか、子ども食堂のこととか、沖縄の米軍基地のこととか、あるいは、人生にはいろいろな選択肢や可能性があることとか。すばらしい文学や音楽や映画や演劇や書物があることとか、美しい風景があることとか。

 あるいは、人生をゆたかに生きること。人生を意味あるものとして、楽しいものとして生きる、そのことを知ってほしい、そのことを見せたい、見てほしいと思います。また、苦しいことがあってもひとつまたひとつ乗り越えていくことを、やさしい心、平和な心、正義の心をもって生きていくことを、そういう道を見てほしい、見せたいと思います。

 見せたいものを持つ人は、同時に、見る人でもあるかも知れません。親としては、自分の子どものことが、それなりによく見えます。見えているつもりです。一番よく目に入るのは、その時、その時の姿でしょう。朝登校していく姿、夕方帰ってきた姿、夕飯を食べる姿、中間テスト前夜の姿、そうしたものがよく見えます。

けれども、子どもより何十年か長く生きている親としては、もう少し長いスパンのものも、見るように心がけなければならないと思います。長く生きている分、それが見える位置にいるのですから。

子どもたちの毎日の姿、一つ一つの出来事だけでなく、高校生活全体とか、青年期全体とか、もっと言えば、人生全体とか、そういう大きな枠組みで見る必要があるでしょう。中学や高校で、どのテストの点が良かったとか悪かったとか、どの教科が得意だったとか不得意だったとか、そういうことも、人生全体の中で見たら、子どもが大人になって生きていくという枠組みの中で見たら、あまり大きな問題ではないことでしょう。いずれにせよ、親は子どもより、年齢的には高い所にいますから、そこから見えるものもあるように思います。

 わたしたちは、人に何かを見せようとする者であり、どうじに、人を見遣る者であるのではないでしょうか。

 聖書によりますと、イエスは人びとや弟子たちや聖書の読者に、目に見えない神を見せようとしました。「悔い改めよ。神の国は近づいた」というイエスの言葉の意味は、目に見えないけれども、じつは、神がたしかにここにおられる、神の愛がここにある、それに気づいてほしい、目に見えないけれどもここにこの世界の根源がある、世界を絶えず湧き出す泉がある、それを見てほしい、ということではないでしょうか。

 イエスのこのメッセージは、目に見える権力にこだわる権力者たちに憎まれ、十字架刑にされ、墓に葬り去られました。けれども、神はそのイエスを復活させ、イエスは「高い所」に昇った、と聖書は語ります。

 「高い所」とは、ひとりひとりを見守ることができる所、ひとりひとりの声を聞き、ひとりひとりに眼差しを向けることのできるところでありましょう。それは、実際は、ロケットで行くような、地上何メートルの上空ではなく、目に見えるこの世界に存在する「目に見えない」ところでありましょう。

 イエスは、目に見えないところをわたしたちに見せようとし、やがて、目に見えないところからわたしたちを見ていてくださるお方になられた、と新約聖書は告げているように思います。

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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(60)「いいねやすごいねをもらわなくても大丈夫です」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(60)「いいねやすごいねをもらわなくても大丈夫です」

 ある高校の先生が言っていました。四月になるとクラスがあたらしくなり、生徒同士の関係は、最初はぎこちなかったり、不自然だったりするそうです。ところが、五月、六月になり、「おちのない話」ができるようになると、それが、打ち解けてきた証拠になるとのことです。

 「おちのない話」とはどういうことでしょうか。皆、最初は、自分をアピールしようと、おもしろい話、受ける話をしようとするそうです。そして、それによって、いいねとか、すごいねとか、思われたいようです。ところが、打ち解けてくると、おもしろいと思われなくても、受けなくてもよくなくなり、この問題は難しいねとか、部活はしんどいねとか、とくにおもしろくもないし受ける必要もない、日常の話ができるようになるようです。けれども、打ち解けるまでは、おもしろいね、受けるね、いいね、すごいね、と認められようとする時期があるとのことです。

 話しは変わりますが、最近は、スマホの進化によって、手軽にきれいな写真を撮れるようになりました。庭、公園、街角を彩る花々や緑の木々、日光や町の光を反射する川、水色の空、おいしいランチやデザートなどを、パチッと写すことを日常の習慣にしている人も少なくないでしょう。

 わたしも、一日に一回から数回は、これはいいね、と思うものにレンズを向け、シャッターを押します。ひとつのものを何度か撮り直すことがあります。それから、それらを見て、よいものを選び、さらに、トリミングをしたり、明るさを調整したりします。SNS(インターネット)に投稿するためです。

 誰かに見てもらい、さらには、「いいね」や「すごいね」をもらいたいからです。そういう反応があると、すこしうれしくなったり、心がはずんだり、気持ちが明るくなったりします。満足、肯定のような気分も感じられます。

 聖書によりますと、イエスの時代にも、自分のことを人に見てもらい、ほめてもらいたい人がいたようです。わざわざ人が見ている前で、誰かに施しをするとか、いかにも信心深そうに祈ってみせるとか、そういう人がいたようです。

 イエスはそういう人は「既に報いを受けている」と言います。すでに、人の賞賛を受けている、と言います。このような言い方によって、イエスは、人を本当に支えるものは、他の人からの誉め言葉ではなく、神さまの愛だ、と説いているのではないでしょうか。

 さらには、その愛は、良い言動への褒美ではなく、無条件に贈られるプレゼントだと、イエスは深く感じていたのです。

 人からの承認を過度に求めるとわたしたちは苦しくなってしまいます。そういうとき、わたしたちの源であり、いのちと世界の源である存在が、わたしたちを無条件に肯定していてくれる、こういう考えに触れると、何か得るものがあるのではないでしょうか。

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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(59)「目に見えない神を垣間見るためのレンズ」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(59)「目に見えない神を垣間見るためのレンズ」

 「レ・ミゼラブル」(「ああ、無情」)という小説はとても有名ですが、文庫本で全四巻にわたる長編であり、ストーリーの展開や場面描写、登場人物のせりふ以外に、著者ヴィクトル・ユゴーの哲学や思想の展開が延々と続くので、作品そのものを読んだことのある人は、じつは、あまりいないそうです。

 ぼくも、同様で、映画で観たり、「レ・ミゼラブル」の「入門書」を読んだりはしましたが、小説を直接知っているわけではありません。プラトンとかカントとかマルクスとか、難しそうな思想家についても、おなじことで、彼らの著作を直接読んだことはなく、「哲学入門」「カント入門」といったものを通して、垣間見ただけです。

 聖書についても、似たようなことがあります。聖書は直接読んでもなかなかわかりにくい個所がいくつもあるので、やはり、聖書入門のような解説書が頼りになります。

 けれども、入門書の著者たちは、当然、小説も哲学書も聖書も、じかに、しかも、深く知っているのです。

 わたしたちは、自分が直接触れるのが難しかったり、直接理解できなかったりするようなことがらについては、わたしたちとそのものとのあいだに、眼鏡のような、レンズのようなものをおくことがあります。

 聖書を読みますと、イエスは、「神の子」と呼ばれたり、自分は「父」(神)と一体だとか、自分は(神への)「道」だとか、言ったりしています。

 イエスの「神の国が近づいた」「空の鳥、野の花を見よ」といった発言を見ますと、イエスは、神がこの世界にいきいきとして存在すること、また、動物や植物にいのちを与えていることを、まざまざと感じていたように思います。

 イエスは、わたしたちより、他の誰より、はるかに強く、神という目に見えないリアリティを感じ、知り、そして、それを、言葉やたとえ話、行動で、他の人々に伝えようとして、かなり成功したのではないでしょうか。

 イエスをレンズとして神に触れた人びとは、イエスを「神の子」と呼び、「道」と名付けた、と思うのです。

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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(58)「死者は遠くに行ってしまい、しばらく会えない、のではありません」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(58)「死者は遠くに行ってしまい、しばらく会えない、のではありません」

 死んでしまった人は、今いったい、どこにいるのでしょうか。わたしたちは、「あの人は遠いところに行ってしまった」とか、「空の高いところから見守っていてくれる」などと口にすることがあります。死者との距離を感じているのです。

 その人とはどうしたら会えるのでしょうか。わたしたちは、「天国でまたお会いしましょう、わたしたちもやがてそこに行きます」とか、「おかあさんはいまごろ天国でおとうさんと再会しているでしょうね」とか言ってみたりすることもあります。その日までは、しばらくおわかれ、という感覚があります。

 けれども、死んでしまった人たちが、じつは、すぐそばにいてくれる、と感じることもないでしょうか。なんだかいつも一緒にいてくれるような気がするんだよね、目には見えないけれども隣にいて支えていてくれると思うんだ。そういう気持ちになることもあります。

 死んだ人は遠くに行ってしまって、わたしたちが死ぬまで会えないのでしょうか。それとも、今も、一緒に生きつづけているのでしょうか。

 聖書によりますと、ある女性が兄弟に先立たれました。イエスが「あなたの兄弟は復活する」と言うと、彼女は「終わりの日に復活するのですね」と答えます。

 けれども、イエスは、そうではない、そんな遠い日のことではない、と伝えます。そして、今あなたの眼の前にいる「わたしこそが、復活であり、命である」と語るのです。

 イエスは、人のいのちの根源には神のいのちがあることを強く感じていました。そして、両者のつながり、さらには、自分のいのちと神のいのちのつながりを確信、いや、信頼していました。

 イエスは、神のいのちは死を越えて人とつながっていると信頼し、それは、一般論などではなく、まさに自分と神さまの関係において、そのことを強く信じていたのです。

 そのイエスにとって、死者もまた、神のいのちとつながっているのであり、神のいのちを通して、死者と生者は、何かの日を待たなくても、つまり、たった今も、しっかりつながっているのです。

 イエスは「復活」「命」という言葉によって、神と深く結ばれたいのちへの生き生きとした信頼を言い表したのではないでしょうか。

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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(57)「目に見えない、深いところにある、世界の根源を信頼する」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(57)「目に見えない、深いところにある、世界の根源を信頼する」

 たしかな証拠が欲しい。わたしたちは不安な問題を抱えているとき、その不安を解決してくれるようなたしかな証拠を求めます。

 子どもを高校、大学と進ませるには、受験料、塾費用、入学金や授業料、教材費、学校活動費、部活費など、百万単位のお金を必要としますが、これは、簡単に調達できるものではありません。

 ある調査によりますと、東京の私大生と高校生がいる埼玉の家庭では、1年間に800万円以上必要ですが、平均収入は550万円くらいだそうです。250万円はどうするのでしょうか。これを何とか補てんできる確証をつねに求めて、悩み、苦しみ、心をわずらわせるのですが、なかなか250万円をたしかなものにすることはできません。

 子どもたちの進学についても、今の学校でこれくらいの成績順位で、模擬試験でこれくらいの結果を出しているから、〇〇大学あたりなら合格できるのではないか、というたしかな感覚を持ちたいのですが、これもなかなかそういうわけには行きません。

 それでも、わたしたちは、いつまでも、目に見えるたしかな保障を追い求めてしまいます。そうではなく、なんとかなるさ、人生がなんとかしてくれるさ、世界がなんとかしてくれるさと、証拠なしに、けれども、深い信頼に基づいて、安心できたら、どんなにすばらしいことでしょうか。

 聖書によりますと、ある人びとがイエスのところにやってきて、「おまえは神の子だと言われているようだが、そのしるし、その証拠をみせてみろ」と言います。

 これに対して、イエスは「そんなしるし、そんな証拠は、よこしまな人間、神を信頼しない人間が求めるものだ」と答えます。

 この時代、神がいるとかいないとかはあまり問題ではなかったのではないでしょうか。むしろ、ここでは、神はいることが前提で、それに信頼するかどうかか重要だったのではないでしょうか。わたしたちが世界や歴史や人生の存在は疑わないけれども、それに信頼するかどうかが大事であるように。

 目に見えるしるしはないけれども、あるいは、感覚的にも、心理的にも、思考的にも、たしかなものはないけれども、それでも、世界と人生、言い換えますと、自分よりはるかに大きないのちに、生かされ、支えられているという根本的な、根源的な、深源的な信頼をイエスは示そうとしていたのではないでしょうか。

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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(56)「死んでしまった大切な人はお墓の中ではなく、すぐ近くに生きつづけています」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(56)「死んでしまった大切な人はお墓の中ではなく、すぐ近くに生きつづけています」

 「千の風になって」という歌が大ヒットしました。お墓の前で涙を流す人に向かって、死んだ人が、わたしはここにはいません、ここで眠っているのではありません、空の風に、あるいは、秋の光、冬の雪、朝の鳥、夜の星になって、あなたと同じ世界、さらに言えば、あなたのすぐ近くにいます、と歌うのです。

 NHKの朝のドラマの「ごちそうさん」では、おばあちゃんは死んだ後、糠床(ぬかどこ)となって、主人公に寄り添いつづけます。ゲゲゲの鬼太郎のお父さんも死んだ後、鬼太郎の目玉になって、鬼太郎を支え続けます。死者は、大切な人は、生きている人の、いわば、日常に生き続けているのです。

 聖書によりますと、イエスが死んで埋葬された翌々日、今で言えば、日曜日の朝、イエスと親しくイエスを大切に思っていた女性たちが墓に行きます。すると不思議なことに、墓穴を塞ぐ石がとりのけられ、さらには、天使があらわれ、こう言います。「あの方は、ここにはおられない」。

 では、どうしたのかというと、「復活した」と言います。そして、「ガリラヤに行った」と言います。ガリラヤとは、じつは、イエスが人びとと親しく過ごした日常の場でした。イエスはそこで人びとと話をし、飲み食いをともにしたのです。ガリラヤは日常生活の場でした。イエスが復活した、ということは、イエスが親しい人びと、大切な人びとの日常の場に生きている、ということを意味しているのです。

 女性たちが、これはとてもうれしいことだ、他の人びとにも伝えよう、と走り出すと、行く手にイエスがあらわれて、「おはよう」と言います。

 復活などと言えば、信じがたい超自然現象、非日常のことがらのはずなのに、イエスがさりげなく「おはよう」と声をかけてくるとは、なんとのどかなことでしょうか。

 「死んだ人が生き返った」などという話は、たしかに信じがたいのですが、わたしたちは、「おじいちゃんは天から見守っていてくれる」とか「おかあさんはもう目には見えないけれども、いっしょにいて支えていてくれる」などという感覚にはそんなに違和感はありません。イエスのまわりの人たちは、復活という言葉や物語で、どのような実感を伝えようとしたのでしょうか。

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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(55)「冬枯れと思っていた景色の中には、じつは、紅や黄の花を咲かせるいのちが通っています」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(55)「冬枯れと思っていた景色の中には、じつは、紅や黄の花を咲かせるいのちが通っています」

 庭にシャクヤクが咲いた、と思ったら、どうもボタンのようです。去年の秋にいただいて、さっそく植えてみたのですが、どんどん葉が落ちて、枝も簡単にポキポキ折れるくらいに枯れてしまいました。もう引っこ抜いてしまおうと思いましたが、まあ、完全に枯れ果ててしまうまではとりあえずそのままにしておこうと思い直しました。

 すると、まあ、なんということでしょう。2月には枯れた枝に交じって、幹から芽が吹き、葉が広がり、3月にはつぼみを膨らませ、この4月、ついに花を咲かせたのです。枯れてしまった、大地から水も養分も通わせなくなってしまったと思ったら、じつは、生きていたのです。

 そう言えば、薄紅色の桜の花も、ぼきぼき折れそうな褐色の枝や樹皮が剥がれそうな漆黒の幹の中から、突如噴き出してきます。冬枯れの山吹の茶色の幹や枝も、やや緑づいたかと思うと、黄色の点をいくつも浮かび上がらせます。庭の芝生も、ゴザのようなわら色になった表面に、裏から少しずつ刺繍をほどこすかのように、薄緑の芽を現してきます。死んでしまったと思われるような冬景色は、その奥にいのちを灯し続けていたのです。
 
 聖書によりますと、イエスは十字架につけられ、死んで、墓に埋葬されました。イエスを自分のよりどころと慕っていたマグダラのマリアが墓に行きますが、石がとりのけられ、イエスの遺体はそこにありませんでした。

 マリアは、自分の大切なイエスがどこかに連れ去られてしまった、イエスは自分を置いてどこか遠くに行ってしまった、と悲嘆にくれ、ひたすらイエスを探し求めます。イエスはどこかに行ってしまった、一体どこに行ってしまったのか、と叫びながら。

 とその時、誰かの気配がします。ふりかえってみると、たしかに人がいました。墓地の管理人です。管理人は「どうして泣いているのですか」と尋ねます。マリアは、「いのちより大切な人、わたしの根本のよりどころがわたしを置いてどこかに行ってしまったのです」と答えます。

 すると、管理人は「マリア」と呼びかけます。よく知っている声、懐かしい声、そして、やさしさに満ちた声でした。マリアは「先生」と答えます。管理人だと思ったら、イエスだったのです。

 自分を置いてどこか遠くに行ってしまったと思ったら、大切な人は、じつはすぐ近くにいたのです。死んでしまったと思ったら、大切な人は、じつは、生きていたのです。マリアは、死は終わりではなく、死は死でなく、死を越えたいのち、死を越えた永遠のつながりがあることを知ったのです。

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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(54)「神に見捨てられたと叫ぶ人によって、かえって、神とのきずなが取り戻される」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(54)「神に見捨てられたと叫ぶ人によって、かえって、神とのきずなが取り戻される」

 とても嫌なことがあり、傷つき苦しんでいるときに、「気にしない方がいいよ」とか「忘れてしまった方がいいよ」と声をかけてもらうのは、とても感謝すべきことです。けれども、わたしたちは、押しつぶされるような痛みを気にしないようにして気にしなくなったり、心が張り裂けそうな傷みを忘れようとして忘れてしまったりすることは、なかなかできないのではないでしょうか。お酒やテレビやネットやおしゃべりなどでその間だけは、そして、心の表面だけは、まぎらわせることができるかもしれませんが。

 「それは、ほんとうに苦しいよね」「それは、ひどいめに遭ったね。それは、すごく傷つくよね」。とても苦しいときは、このような言葉をかけてもらい、心の痛みが少し和らぐことがないでしょうか。

 映画やドラマで、海に向かって「ばかやろう」と叫んでいる人がいたとき、別の人が出てきて、「そんなことはやめなさい」と言うより、一緒になって「ばかやろう」と叫んでくれる方が、心が慰められるのではないでしょうか。

 悲しい音楽や物語に触れるとき、こちらも悲しくなりながらも、そのことによって、かえって、こちらが以前から抱えていた悲しみが愛おしく感じられることがないでしょうか。

 聖書によりますと、イエスは権力者たちに捕まえられ、尋問され、侮蔑され、虐待を受け、十字架につけられ、息を引き取りました。「わが神、わが神、どうしてわれを見捨てたのか」と叫びながら。

 そして、これを目撃して、「ああ、この人は神の子だった」と強く感じた人びとがいました。その人びともまた「神に見捨てられた」というほどの苦しみを抱えていて、けれども、奇跡などを起こすことで神の子と呼ばれていたイエスもまた、万能ではなく、「神に見捨てられた」と叫ぶことで、自分たちの苦しみがわかってもらえた、ともに担ってもらえた、と痛いほどに感じたのではないでしょうか。

 そして、かつて神の子と呼ばれるほどに万能に見えた存在が自分たちと同様に「神に見捨てられた」と叫んでくれることによって、かえって、見捨てられたと思っていた神とのつながりが回復されたという、逆説的な救いを痛感したのではないでしょうか。

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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(53)「非常識な話を常識で断罪するか、それとも、自分の常識の枠を打ち砕くのか」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(53)「非常識な話を常識で断罪するか、それとも、自分の常識の枠を打ち砕くのか」

 わたしたちは、人が言うこと、人が話していることを、わたしたちの常識によって、判断したり、さらには、断罪したりすることがあります。太陽が地球の周りをまわっている、ということが人々の常識だった時代に、いや地球が太陽の周りをまわっている、と言った者は、おそらくよく聞いてももらえないままに、ただちに断罪されたのではないでしょうか。

 つぎのうちのいくつが、あなたの常識からははずれているでしょうか。イエス・キリストの誕生日が12月25日などとは聖書にどこにも書かれていません。キリスト教徒のすべてが神を100%信じ切っているわけではありません。聖書に書かれていることをそのまま鵜呑みにしているわけではありません。

 自分の常識から逸脱しているものに接したとき、わたしたちは、そうか、そんなこともあるのだ、そんな考え方もあるのだ、たしかに、そうかもしれないな、と新鮮に驚くことができるでしょうか。それとも、いや、そんなはずはない、そんな考え方はおかしい、自分には受け入れられない、と拒絶するのでしょうか。あるいは、自分に合うようにアレンジし直してしまうのでしょうか。

 新約聖書にこんな話があります。イエスの弟子ペトロが、イエスのことを「あなたは救い主です、神の子です」と言います。すると、イエスは「おまえは幸せだ。おまえがそのように言えたのは、おまえの人間としての思いからではなく、神さまがおまえにそうわからせてくれたのだ」と絶賛します。

 ところが、しばらくして、イエスがペトロに「わたしはまもなく社会の権力者たちによって苦しめられ、殺される」と言いますと、ペトロは「とんでもないです。そんなことがあるはずがない」と反応します。すると、イエスは「サタン、引き下がれ。ペトロ、おまえは、神の思いではなく、自分の思いで語っている」と答えます。イエスにとって、サタンとは、自分の常識にこだわり、イエスの言葉をわかろうとしないペトロの姿、そのもののことだったのでしょう。

 新約聖書は、イエスはキリスト(救い主)である、というメッセージを送っていますが、それは、ペトロがイメージしたであろう、そして、わたしたちもそうするであろう、魔法の救済術をもった存在ではありません。イエスは、たしかに、奇跡を起こしたりもしますが、最後は、十字架刑で殺されて、墓に葬られてしまいます。たとえ、その後に復活が待っていたとしても、イエスは苦しみや死、弱さ、無力を回避することができなかった、そのような救い主なのです。この非常識な救い主をわたしたちは自分の常識で判断するのでしょうか。それとも、自分の常識を砕くことができるのでしょうか。

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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(52)「毒ではなく薬をもって毒を、悪ではなく正義を持って悪を制す」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(52)「毒ではなく薬をもって毒を、悪ではなく正義を持って悪を制す」

 「毒をもって毒を制す」という言葉があります。悪人の気持ちは悪人の方がわかるとか、悪人の方が悪人の扱いには慣れている、あるいは、ワクチンのように、毒によって毒を抑える、というような意味合いもあるようですが、以下のような場合もあてはまるかも知れません。

 AくんがいじめっこBくんにいじめられているとします。そこにもうひとりのいじめっこCくんがあらわれ、Bくんをいじめます。AくんはうまくCくんの配下に入り、Bくんのいじめから解放されます。けれども、どうでしょうか。Aくんは、今度は、Cくんからいじめられる可能性はないでしょうか。

 DさんはEさんにひどい目にあいました。ところが、FさんがEさんをやっつけようとしていることを知りました。けれども、DさんはFさんのことも倫理面で良く思っていませんでした。DさんはFさんにEさんのひどさを訴え、Eさんがやっつけられてしまうことを期待すべきでしょうか。けれども、そうすれば、Dさんは良く思っていないFさんと同レベルになってしまわないでしょうか。

 毒をもって毒を制すことには、現実的、実践的な面がありますが、ひとつの毒は消えてしまっても、もうひとつの毒が残ります。より強力な毒になるかも知れません。ならば、毒は毒をもって制すのではなく、毒ではないもの、無毒なもの、いや、毒は薬で制した方がよいのではないでしょうか。じっさいの医療では、薬はリスクとも言われていますが。

 表現を変えれば、悪は悪をもって制すのではなく、悪ではないもの、正義で制すべきではないでしょうか。都合の良い正義ではなく、歴史の中で練り上げられてきた普遍的な正義でもって。

 大声を制すのは別の大声ではなく、沈黙ではないでしょうか。憎しみには憎しみではなく愛を、争いには争いではなく赦しを、分裂には一致を、疑いには信頼を、誤りには真理を、絶望には希望を、闇には光を、ではないでしょうか。

 聖書によれば、目が見えず口が利けない人が、イエスによって、目が見えるように、口が利けるようにされました。当時、病気や障がいを持っている人は悪霊に取りつかれていると思われていて、ある人びとは、イエスは悪霊に優る神の子だと考えましたが、ある人びとは、イエスは悪霊に優る悪霊、悪霊の頭だと思いました。

 つまり、イエスが病気の人びとを癒すのは、神の力なのか、悪霊の力なのか、見解が分かれたのです。それに対し、イエスは、自分が悪霊の力を使って他の悪霊を追い出しているのなら、内輪もめだ、悪霊で悪霊を制すことはできない、わたしは神の力で悪霊を制しているのだ、と答えます。

 イエスもまた、悪の力を乗りこえるには、悪とは正反対の力が必要だと考え、また、悪にまさる神の力が世界や自分には働いていると信じていたのです。

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