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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(55)「冬枯れと思っていた景色の中には、じつは、紅や黄の花を咲かせるいのちが通っています」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(55)「冬枯れと思っていた景色の中には、じつは、紅や黄の花を咲かせるいのちが通っています」

 庭にシャクヤクが咲いた、と思ったら、どうもボタンのようです。去年の秋にいただいて、さっそく植えてみたのですが、どんどん葉が落ちて、枝も簡単にポキポキ折れるくらいに枯れてしまいました。もう引っこ抜いてしまおうと思いましたが、まあ、完全に枯れ果ててしまうまではとりあえずそのままにしておこうと思い直しました。

 すると、まあ、なんということでしょう。2月には枯れた枝に交じって、幹から芽が吹き、葉が広がり、3月にはつぼみを膨らませ、この4月、ついに花を咲かせたのです。枯れてしまった、大地から水も養分も通わせなくなってしまったと思ったら、じつは、生きていたのです。

 そう言えば、薄紅色の桜の花も、ぼきぼき折れそうな褐色の枝や樹皮が剥がれそうな漆黒の幹の中から、突如噴き出してきます。冬枯れの山吹の茶色の幹や枝も、やや緑づいたかと思うと、黄色の点をいくつも浮かび上がらせます。庭の芝生も、ゴザのようなわら色になった表面に、裏から少しずつ刺繍をほどこすかのように、薄緑の芽を現してきます。死んでしまったと思われるような冬景色は、その奥にいのちを灯し続けていたのです。
 
 聖書によりますと、イエスは十字架につけられ、死んで、墓に埋葬されました。イエスを自分のよりどころと慕っていたマグダラのマリアが墓に行きますが、石がとりのけられ、イエスの遺体はそこにありませんでした。

 マリアは、自分の大切なイエスがどこかに連れ去られてしまった、イエスは自分を置いてどこか遠くに行ってしまった、と悲嘆にくれ、ひたすらイエスを探し求めます。イエスはどこかに行ってしまった、一体どこに行ってしまったのか、と叫びながら。

 とその時、誰かの気配がします。ふりかえってみると、たしかに人がいました。墓地の管理人です。管理人は「どうして泣いているのですか」と尋ねます。マリアは、「いのちより大切な人、わたしの根本のよりどころがわたしを置いてどこかに行ってしまったのです」と答えます。

 すると、管理人は「マリア」と呼びかけます。よく知っている声、懐かしい声、そして、やさしさに満ちた声でした。マリアは「先生」と答えます。管理人だと思ったら、イエスだったのです。

 自分を置いてどこか遠くに行ってしまったと思ったら、大切な人は、じつはすぐ近くにいたのです。死んでしまったと思ったら、大切な人は、じつは、生きていたのです。マリアは、死は終わりではなく、死は死でなく、死を越えたいのち、死を越えた永遠のつながりがあることを知ったのです。

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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(54)「神に見捨てられたと叫ぶ人によって、かえって、神とのきずなが取り戻される」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(54)「神に見捨てられたと叫ぶ人によって、かえって、神とのきずなが取り戻される」

 とても嫌なことがあり、傷つき苦しんでいるときに、「気にしない方がいいよ」とか「忘れてしまった方がいいよ」と声をかけてもらうのは、とても感謝すべきことです。けれども、わたしたちは、押しつぶされるような痛みを気にしないようにして気にしなくなったり、心が張り裂けそうな傷みを忘れようとして忘れてしまったりすることは、なかなかできないのではないでしょうか。お酒やテレビやネットやおしゃべりなどでその間だけは、そして、心の表面だけは、まぎらわせることができるかもしれませんが。

 「それは、ほんとうに苦しいよね」「それは、ひどいめに遭ったね。それは、すごく傷つくよね」。とても苦しいときは、このような言葉をかけてもらい、心の痛みが少し和らぐことがないでしょうか。

 映画やドラマで、海に向かって「ばかやろう」と叫んでいる人がいたとき、別の人が出てきて、「そんなことはやめなさい」と言うより、一緒になって「ばかやろう」と叫んでくれる方が、心が慰められるのではないでしょうか。

 悲しい音楽や物語に触れるとき、こちらも悲しくなりながらも、そのことによって、かえって、こちらが以前から抱えていた悲しみが愛おしく感じられることがないでしょうか。

 聖書によりますと、イエスは権力者たちに捕まえられ、尋問され、侮蔑され、虐待を受け、十字架につけられ、息を引き取りました。「わが神、わが神、どうしてわれを見捨てたのか」と叫びながら。

 そして、これを目撃して、「ああ、この人は神の子だった」と強く感じた人びとがいました。その人びともまた「神に見捨てられた」というほどの苦しみを抱えていて、けれども、奇跡などを起こすことで神の子と呼ばれていたイエスもまた、万能ではなく、「神に見捨てられた」と叫ぶことで、自分たちの苦しみがわかってもらえた、ともに担ってもらえた、と痛いほどに感じたのではないでしょうか。

 そして、かつて神の子と呼ばれるほどに万能に見えた存在が自分たちと同様に「神に見捨てられた」と叫んでくれることによって、かえって、見捨てられたと思っていた神とのつながりが回復されたという、逆説的な救いを痛感したのではないでしょうか。

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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(53)「非常識な話を常識で断罪するか、それとも、自分の常識の枠を打ち砕くのか」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(53)「非常識な話を常識で断罪するか、それとも、自分の常識の枠を打ち砕くのか」

 わたしたちは、人が言うこと、人が話していることを、わたしたちの常識によって、判断したり、さらには、断罪したりすることがあります。太陽が地球の周りをまわっている、ということが人々の常識だった時代に、いや地球が太陽の周りをまわっている、と言った者は、おそらくよく聞いてももらえないままに、ただちに断罪されたのではないでしょうか。

 つぎのうちのいくつが、あなたの常識からははずれているでしょうか。イエス・キリストの誕生日が12月25日などとは聖書にどこにも書かれていません。キリスト教徒のすべてが神を100%信じ切っているわけではありません。聖書に書かれていることをそのまま鵜呑みにしているわけではありません。

 自分の常識から逸脱しているものに接したとき、わたしたちは、そうか、そんなこともあるのだ、そんな考え方もあるのだ、たしかに、そうかもしれないな、と新鮮に驚くことができるでしょうか。それとも、いや、そんなはずはない、そんな考え方はおかしい、自分には受け入れられない、と拒絶するのでしょうか。あるいは、自分に合うようにアレンジし直してしまうのでしょうか。

 新約聖書にこんな話があります。イエスの弟子ペトロが、イエスのことを「あなたは救い主です、神の子です」と言います。すると、イエスは「おまえは幸せだ。おまえがそのように言えたのは、おまえの人間としての思いからではなく、神さまがおまえにそうわからせてくれたのだ」と絶賛します。

 ところが、しばらくして、イエスがペトロに「わたしはまもなく社会の権力者たちによって苦しめられ、殺される」と言いますと、ペトロは「とんでもないです。そんなことがあるはずがない」と反応します。すると、イエスは「サタン、引き下がれ。ペトロ、おまえは、神の思いではなく、自分の思いで語っている」と答えます。イエスにとって、サタンとは、自分の常識にこだわり、イエスの言葉をわかろうとしないペトロの姿、そのもののことだったのでしょう。

 新約聖書は、イエスはキリスト(救い主)である、というメッセージを送っていますが、それは、ペトロがイメージしたであろう、そして、わたしたちもそうするであろう、魔法の救済術をもった存在ではありません。イエスは、たしかに、奇跡を起こしたりもしますが、最後は、十字架刑で殺されて、墓に葬られてしまいます。たとえ、その後に復活が待っていたとしても、イエスは苦しみや死、弱さ、無力を回避することができなかった、そのような救い主なのです。この非常識な救い主をわたしたちは自分の常識で判断するのでしょうか。それとも、自分の常識を砕くことができるのでしょうか。

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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(52)「毒ではなく薬をもって毒を、悪ではなく正義を持って悪を制す」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(52)「毒ではなく薬をもって毒を、悪ではなく正義を持って悪を制す」

 「毒をもって毒を制す」という言葉があります。悪人の気持ちは悪人の方がわかるとか、悪人の方が悪人の扱いには慣れている、あるいは、ワクチンのように、毒によって毒を抑える、というような意味合いもあるようですが、以下のような場合もあてはまるかも知れません。

 AくんがいじめっこBくんにいじめられているとします。そこにもうひとりのいじめっこCくんがあらわれ、Bくんをいじめます。AくんはうまくCくんの配下に入り、Bくんのいじめから解放されます。けれども、どうでしょうか。Aくんは、今度は、Cくんからいじめられる可能性はないでしょうか。

 DさんはEさんにひどい目にあいました。ところが、FさんがEさんをやっつけようとしていることを知りました。けれども、DさんはFさんのことも倫理面で良く思っていませんでした。DさんはFさんにEさんのひどさを訴え、Eさんがやっつけられてしまうことを期待すべきでしょうか。けれども、そうすれば、Dさんは良く思っていないFさんと同レベルになってしまわないでしょうか。

 毒をもって毒を制すことには、現実的、実践的な面がありますが、ひとつの毒は消えてしまっても、もうひとつの毒が残ります。より強力な毒になるかも知れません。ならば、毒は毒をもって制すのではなく、毒ではないもの、無毒なもの、いや、毒は薬で制した方がよいのではないでしょうか。じっさいの医療では、薬はリスクとも言われていますが。

 表現を変えれば、悪は悪をもって制すのではなく、悪ではないもの、正義で制すべきではないでしょうか。都合の良い正義ではなく、歴史の中で練り上げられてきた普遍的な正義でもって。

 大声を制すのは別の大声ではなく、沈黙ではないでしょうか。憎しみには憎しみではなく愛を、争いには争いではなく赦しを、分裂には一致を、疑いには信頼を、誤りには真理を、絶望には希望を、闇には光を、ではないでしょうか。

 聖書によれば、目が見えず口が利けない人が、イエスによって、目が見えるように、口が利けるようにされました。当時、病気や障がいを持っている人は悪霊に取りつかれていると思われていて、ある人びとは、イエスは悪霊に優る神の子だと考えましたが、ある人びとは、イエスは悪霊に優る悪霊、悪霊の頭だと思いました。

 つまり、イエスが病気の人びとを癒すのは、神の力なのか、悪霊の力なのか、見解が分かれたのです。それに対し、イエスは、自分が悪霊の力を使って他の悪霊を追い出しているのなら、内輪もめだ、悪霊で悪霊を制すことはできない、わたしは神の力で悪霊を制しているのだ、と答えます。

 イエスもまた、悪の力を乗りこえるには、悪とは正反対の力が必要だと考え、また、悪にまさる神の力が世界や自分には働いていると信じていたのです。

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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(51)「こうしたらこうなったという怪しい実証主義の虚しさを超える人生の支え」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(51)「こうしたらこうなったという怪しい実証主義の虚しさを超える人生の支え」

 わたしたちはお腹が空いていると何かを食べたくなりますが、心が空白のときも、まるでそこをギュウギュウ詰めにするかのように、ポテトチップを一袋ぜんぶ食べきってしまうことがないでしょうか。

 心や気持ち、精神が満たされないとき、むなしいとき、わたしたちは何でそれを満たそうとするでしょうか。食べ物だけでありません。スマホ、おしゃべり、映画、お酒、睡眠、仕事・・・。ほかにどんなものがあるでしょうか。けれども、それは束の間の満腹で、また、すぐに空腹がやってきます。本当は、もっと有意義なもの、人生を充実させてくれるような何かがあるような気がしているのではないでしょうか。でも、それが何だかはっきりとはわからないのではないでしょうか。

 あるいは、わたしたちは、「これをやったらこんな良いことが起こった」「何日間で効果が出た」「何円儲かった」、このようなキャッチフレーズに弱くないでしょうか。じつは、小さく「効き目には個人差があります」とか書かれているにもかかわらず。

 わたしたちは、数学の公式や自動販売機のように、こうすればかならず結果が出る(と謳う)ものについ手を伸ばしてしまいます。証拠になるような誰かの経験、結果とやらに惑わされてしまいます。けれども、他方で、人生においては、実際の結果はさまざまであることを何度も経験していますし、「結果がすべてではない」という常套句も知っています。

 新約聖書によりますと、イエスは荒野で悪魔の誘惑を受けます。最初は石をパンに変えて空腹を満たせ、というものです。それに対して、イエスは、「人は神の言葉によって生きる」と答えます。人間の抱える空白、虚無は、食べ物では満たせない、空白は根本的なものであり、それを満たすものは、神さまのような、やはり、根源的なものだ、とイエスは言おうとしていたのではないかと思います。

 悪魔はつぎに、神が助けてくれるかどうか調べるために、高いところから飛び降りてみろ、と言います。これに対して、イエスは、神を試してはならない、と言います。証拠となるようなこれまでの「結果」、過去の結果(データ)に基づくという「絶対」とやらを、イエスも怪しんでいたのではないでしょうか。

 人生に必要なものは、証拠に基づいているから安心と思えるようなことよりも、むしろ、証拠なしの(それゆえに、不安もともなう)信頼と希望ではないでしょうか。そして、イエスは、目に見えない(=証拠なしの)神に信頼し、「人生はこうなると決まっている」という「計画」ではなく、「人生には(どのようなものかは分からないけれども)道が開かれる」という「希望」を神から受け取ったのではないでしょうか。

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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(50)「人生を支えてくれる二段の構え」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(50)「人生を支えてくれる二段の構え」

 「妹よ」という歌があります。南こうせつさんが歌っていました。明朝、自分の友人と結婚する妹に贈る、夜ふけの歌です。妹は器量があまり良くないから心配したとか(失礼で余計な心配!)、結婚相手は良い奴だからどんなことがあっても我慢しなさいとか、ひとしきり述べたあと、さいごに、どうしてもだめだったらここに戻ってくればよいよ、と結んでいます。

 わたしたちはこのように、二段に構えることがあります。一所懸命にやって目標が達成できるとよいね、けれども、万が一、それができなくても、他にも道があるから大丈夫だよ、と言い聞かせることもあります。

 もっと実際的なことを言えば、A大学がダメだったらB大学があるとか、C社がダメならD社があるとか言うように「スベリ止め」を確保するように考えることが人生には多いように思います。D社もだめなら、実家に帰るということもあります。わたしも、転職をと三社ほど受けて不採用になったときは、九州の両親の家に帰って、つぎの旅立ちまで、しばらくゆっくりさせてもらいました。

 聖書によりますと、イエスの弟子たちは嵐の湖を舟で渡っていました。真夜中です。逆風が吹き荒れ、波が立ちました。弟子たちは恐れおののきます。

 ところが、そこにイエスがやってきます。驚くべきことに、嵐の湖面を歩いてきたのです。これは、人生の困難な道を歩くことの比喩かもしれません。ペトロという弟子はそれを見て、自分も湖面を歩もうとします。ペトロもイエスのように、苦しくても人生の道を歩き抜きたいと願ったのかもしれません。

 ペトロはイエスの方を見すえながら湖上を歩き始めました。最初の数歩はうまくいったようです。けれども、強い風を気にしだしたとたんに、足が沈んでしまいます。

 そのとき、イエスが手を伸ばし、ペトロの手首をしっかりとつかみました。

 ここで、イエスはペトロのためにふたつの道を用意していたのかもしれません。ひとつは、ペトロがイエスを信じて自分で歩み道、もうひとつは、それがだめなときはイエスが手を伸ばしペトロをつかむ道です。神の救いは幾重にもなっていることを聖書は告げているのではないでしょうか。
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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(49)「人の苦しみを痛感し、我が身を痛める」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(49)「人の苦しみを痛感し、我が身を痛める」

「同情」という言葉があります。「同情はやめてくれ」というように、幸福、幸運、立場、能力、成果などにおいて自分は優位だと思っている人が劣位に位置づけている相手を高みから「かわいそうなやつだ」と見下す心情を指すように思われがちです。しかし、文字に注目しますと、「情けを同じくする」とあります。つまり、相手と心を同じくする、相手と気持ちを同じくしようとするということでしょう。

英語にはコンパッションという言葉があります。コンとパッションが合わさった語ですが、コンには「一緒に」「ともに」というような意味があり、パッションには「情熱」「激しい感情」という意味がありますが、さらには「イエス・キリストの受けた苦しみ」という意味もあります。つまり、コンパッションは、「同情」「共感」、さらには、「共苦」とも訳し得るのです。

沖縄には「チムグルサ」という言葉があり、漢字ですと「胆苦さ」となるそうです。これは、誰かが傷んだり苦しんだりしているのを見、わがこととして心痛を覚え、いても立ってもいられない心のあり方を指すようです。

新約聖書によりますと、イエスが異邦人(ユダヤ人ではない人々)の地域に行くと、異邦人の女性から、苦しんでいる娘を助けてくれと懇願されます。

しかし、イエスは「主(しゅ)よ、わたしを憐れんでください」という彼女の第一声には何も答えませんでした。「主よ、どうかお助けください」という第二声に対しても、イエスは、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と答えます。「子供たち」とはユダヤ人のことであり、この言葉は、ユダヤ人のための救いを異邦人にわたすことはできない、という意味になります。

けれども、驚くべきことにこの女性は「しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」とイエスに切り返します。イエスはそれを聞き、ついに「あなたの願いどおりになるように」と言い、娘の病気が癒されたと聖書は記しています。

この物語は何を伝えようとしているのでしょうか。熱心に願えば、祈れば、叶えられるということでしょうか。それとも、イエスは、この女性の切返しの言葉に感心したということでしょうか。

そうかもしれませんが、こういうふうにも考えられます。イエスは、この女性の三度の訴えによって、この女性の痛みと苦しみをわがこととして痛感したのだと。イエスのコンパッション、イエスのチムグルサだったのではないでしょうか。

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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(48)「細かいことまで強いられてするより、感謝により自発的に根本的なことを」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(48)「細かいことまで強いられてするより、感謝により自発的に根本的なことを」

子どもたちは、勉強はしないよりもした方が良いと思いますが、親に強く命じられて、それに背くと恐ろしい罰が待っているから、仕方なくする、というよりは、入りたい学校があるとか、興味のあることをさらに詳しく学びたいとか、英語なら英語の必要性を痛感してそれを身につけたいとか、自発的な理由があって勉強するほうが、よほど望ましいことでしょう。自発的な理由、あるいは、自発的な目標や望みがあれば、それが自分にとって厳しいことでも、なんとかやっていくことができるのではないでしょうか。

助け合いや奉仕というようなことも、同じように思えます。第二次世界大戦中の日本のように、国が人々に強制した隣組活動とか勤労奉仕・・・これは本当は助け合いではなさそうですが・・・そのような、しなければならないからする奉仕や助け合いよりも、自分から進んでする助け合いや奉仕の方が、よほどすばらしいことでしょう。

聖書によれば、イエスの時代、宗教的な戒めをいくつも挙げて、そのひとつひとつを守らなければならない、自分たちは立派にそれを守っているが、そうでない人は神に救われない罪人だ、というような主張をしていた人びとがいたようです。

しかし、イエスは貧しさや職業のせいでそのような戒めを守れない人々と一緒に食事をするなど、親しく交わりました。すると、イエスは戒めを守らない人間だという非難を浴びました。

けれども、イエスは何百もある細かな規則、してはいけないこと、すべきとのリストよりも、もともとその背景にあった、神を愛せよ、隣人を愛せよ、という根本的な精神を示し、人びとをそこに立ち返らせようとしたのです。

そして、強いられて戒めを守ることよりも、それ以前にすでに神に愛されていることに気付き、それへの感謝として、自発的に、神と隣人を愛することを促したのではないでしょうか。

イエスは、小鳥や花は強迫的に何かをしなくても、そのままで神から生かされていることを示しました。そのことを考えれば、神と隣人を愛せよとのイエスの戒めも、しなければならないノルマと言うよりは、自発性の促し、自発への招きのように思えるのです。

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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(47)「いわく言い難いけれども非常に大切なことを伝える方法」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(47)「いわく言い難いけれども非常に大切なことを伝える方法」


 子どもらに兄弟の結束の必要性を説くために、毛利元就は、「一本の矢はすぐに折れるが、三本束になると折れにくい」というたとえ話をしました。

 詩人は、「その人は優しく美しい」とは言わず、「愛する人の優しさは花に優り、美しさは星に優る」と歌います。

 大切なことやいわく言い難いことを、少しでもわかりやすく、あるいは、印象深く伝えるために、人は、たとえを用います。

 イエスもたとえを多用しました。イエスが感じていた神の国は、目に見えないにもかかわらず、非常に大切で根本的なものであり、目に見えないゆえにいわく言い難いものでした。けれども、イエスはそれを生き生きと感じており、人びとに伝えないではいられませんでした。

 「神は生きている。そのリアリティはますます大きくなってきた」ことを伝えるために、イエスは植物の成長を引き合いに出します。一粒の種が芽をだし、茎を伸ばし、何十倍にも育っていく、という耕作者なら誰でも知っていることを持ち出し、農民たちに語ります。

 「あれこれ心配しなくてもよい。神がなんとかしてくださる。神を信頼し、神に委ねよう」ということを伝えるために、イエスは、空の鳥や野の花が労働をしていないように見えても生かされ美しく装われているではないか、と人々に説きます。

 「神はあなたが帰ってくるのを切に待ち望んでいる」という言葉だけで感動し慰められる人もいますが、それだけでは、ピンとこない人もいます。だから、イエスは、財産を持ち出し、家出をして、無一文になって帰ってきた息子を駆け寄って迎える父の話をします。

 こうして、イエスの周りの人々は、イエスを通して、神のリアリティに触れたり、思いを寄せたりしたのですが、では、このイエスは何者なのだろう、ということになった時に、「神の子」に違いない、と感じたのです。けれども、これは生物学的な親子関係ではないことはたしかです。
 
 人びとは、いわく言い難いイエスのことを他の人に伝えるために、「神の子」という表現あるいはたとえを用いたのです。
 

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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(46)「ジーザス・イズ・アワ・サンシャイン♪ 」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(46)「ジーザス・イズ・アワ・サンシャイン♪ 」

ユー・アー・マイ・サンシャイン♪ 有名なこの曲を少し日本語にしてみると、「わたしにとってあなたはおひさまの陽射し、あなただけがわたしの陽射し 曇り空でも幸せにしてくれる」といった感じでしょうか。

好きな人と言葉を交わせれば、その声を聞くことができれば、その人のことを思うだけで、冷たい冬の日でも、あたたかな陽だまりにいるようだ、ということでしょうか。もっとも、シェイクスピアという昔のイギリスの劇作家は、詩の中で次のように記しているそうです。「私の恋人は誰にも劣らず美しい。ただし、空に輝いている日や月ほどではない」。

 わたしたちの人生には闇のような場面があります。自分を苦しめたり困らせたりする人がいてストレスだったり、仕事や家族のことでうまくいかなかったり、自分のやりたいことが思うようにいかなかったり。

人生のそういう夕ぐれや夜を照らしてくれる光にはどんなものがあるでしょうか。「この世界の片隅に」や「ローグワン」を観に行ったり、痛快や感動の小説を読んだり、心が震えたり踊ったりする音楽を聞いたり、「汁なし担担麺」や(廻るものであっても)お寿司をいただいたり、尊敬できる優しく親しい友人と会ったり。たしかに、こうしたもののお蔭で、闇もある人生でもなんとか歩むことができるのでしょう。

聖書によりますと、イエスは「暗闇に住む民が見る大きな光」、そして、「死の陰の地に住む者に射し込む光」と言われています。当時、ユダヤの王は暴君で、それを批判した預言者ヨハネは投獄され、しまいには斬首刑にされたと言います。まさに「死の陰の地」です。わたしたちの生きている現代も、そのような不条理や理不尽が人生にはつきまといます。また、わたしたちは、心や体、仕事や家庭や人間関係、お金などのことで、痛んだり苦しんだりしています。まさに「暗闇」です。

 聖書は、二千年前も、現代も、イエスはそのような闇夜に射し込む光だ、というメッセージを送っているのではないでしょうか。二千年前の人は、イエスとの直接の出会いを通して、わたしたちは、聖書に書かれたイエスの物語を通して、イエスの光を受けている、と伝えているのではないでしょうか。

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