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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(76)「自分へのこだわりを手放し、まわりの人や神に心を向けてみましょう」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(76)「自分へのこだわりを手放し、まわりの人や神に心を向けてみましょう」

 部活があったため、中学最初の二年間は、子どもたちは塾に行かせませんでした。その代わりに、通信教育の添削教材をやらせていました。けれども、成績があまり良くないので、教科書に即した市販の問題集も買い与えました。三年生になって、はじめて、塾に行かせました。それでも、一学期末の模試の結果を見て、不安になり、夏休みは、塾の講習のほかに、いろいろと受験用教材もやらせました。模試も何度も受けに行かせました。けれども、心はおだやかにはなりませんでした。(受験の結果は悪いものではありませんでしたが、つぎは、高校の勉強、大学受験が待っていました・・・)子どもたちとその人生を信頼することと、子どもの立場に立つことが欠けていたように思います。

 疲労や動悸や息苦しさ、めまいなどに見舞われた時期がありました。病院で検査を受けても、とくに異常は見つかりませんでした。そこで、本を読み漁り、これは自律神経失調症だなと思い当り、それに良いと言われる方法がいろいろあることを知りました。漢方薬、鍼灸、マッサージ、呼吸法、心療内科、心理療法、散歩・・・。それらのいくつかを試し、たしかに効果を感じたものもありました。けれども、どうしても自分の体調ばかりに意識が行き、空や歴史や世界などといった自分を超えた大きな存在や、あるいは、まわりの人びとのことには、あまり思いが行きませんでした。

 新約聖書によりますと、イエスのところにある人が訪ねてきます。神に救われたいと願ってやって来たのです。盗まない、殺さない、虚言を弄さない、親を敬う。そうしたことをしっかり守ってきた、とその人は言います。

 すると、イエスは、「では、にぎりしめている物をすべて売り払い、貧しい人びとに施しなさい」と言いました。

 わたしたちは何を握り締めているでしょうか。問題を解決するためのいろいろな方法、自分の力、信念、正しさ、これまで考えてきたこと、してきたこと、財産、地位、学歴・・・。そうしたものをにぎりしめていないでしょうか。

 イエスはそれらを手放し、神のような、自分よりもっと大きな存在に委ねよ、と教えているのではないでしょうか。自分という小さなものではなく、もっと大きなものに、自分自身を委ねよ、と言っているのではないでしょうか。

 自分にしがみつくのではなく、意識を自分の外に向けよと。自分の外には何があるのでしょうか。そこには、世界や歴史、大空、神のような自分をはるかに超える大きな存在があり、どうじに、貧しい人びとのように、自分のすぐそばで生きている他者(他人ではない!)がいるのです。自分や自分のすることから、自分の外にいる神と隣人に、心を向けることをイエスは促したのです。

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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(75)「死後の世界は言葉では言い表せないけれども、ただひとつだけたしかなことがあります」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(75)「死後の世界は言葉では言い表せないけれども、ただひとつだけたしかなことがあります」

 もし死後の世界があるなら、そこはどのようなところでしょうか。今わたしたちがいる世界と同じように、時間があり、空間があるのでしょうか。今と同じように言葉や意識をひとりひとりが持っているのでしょうか。

 先に旅立ったおばあちゃんは92歳の姿のままそこにいるのでしょうか。それとも17歳のときのようになっているのでしょうか。あるいは、赤ちゃんのようになっているのでしょうか。

 「おばあちゃんはきっと天から見守っていてくれるよ」という言葉は何らかの意味で真実だと思いますが、それは92歳か17歳か新生児の人間としてでしょうか。それとも、お星さまになっているのでしょうか。

 わたしたちにはわからないのです。わからないから、あたり一面金色に輝いたり、花が咲き乱れ小鳥がさえずったり、妙なる調べが聞こえたりするような死後の世界を思い描くしかないのです。わからないから、たましいだけになるとか、透明になるとか、人間の目には見えない姿になるとか、どこかに生まれ変わるとか、星になるとか、風になるとか、鳥になるとか、想像力を働かせるしかないのです。

 そして、それはけっして不十分なことではありません。見えない世界を、これこれこういう世界だと断定してしまうことの方が問題です。見えない世界を、今生きている世界の考えを使って、これこれこうなんだと言ってしまう方がおかしいのです。トンネルを抜けたら霊界だったという言い方は、想像の範囲では許されるかもしれませんが、客観的な事実として断定するのであれば、怪しいテレビ番組になってしまいます。

 新約聖書によりますと、イエスも、地上の旅を終えた後のわたしたちの姿を断定的には示しませんでした。ただ「めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになる」と言っただけなのです。

 「めとることも嫁ぐこともなく」とは、わたしたちの今の生活とはまったく違うということでしょう。今のわたしたちと同じ姿、同じ時間・空間・意識感覚があるわけではないのです。わたしたちの想像をまったく越えることであるし、わたしたちの五感を使っても描き出すことはできないことでしょう。

 「天使のようになる」というのはどういうことでしょうか。天使とはどういうものなのかわかりません。ただ、神さまとつながっている存在であることはわかります。

 この世の旅を終えた後、わたしたちはどのような世界でどのような姿になるのかは、わたしたちの言葉では言い表すことはできないけれども、ただひとつたしかなことがある。それは、神さまとつながっているということだ。イエスがこう言いたかったとしても不思議ではありません。

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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(74)「規則ではなく、神の愛こそが、人と人を大切に結び合わせます」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(74)「規則ではなく、神の愛こそが、人と人を大切に結び合わせます」

 「勉強したか」と子どもたちに聞くと「したよ」と答えますが、教科書を眺めているだけでは、じつは勉強をしたことにはなりません。英語の綴りや基本用語など覚えるべきものは覚える、数学なら学んだ公式や定理を利用して問題が解けるようになる、そして、それらが身に付いているかチェックする、そこまで誠実にやらなければ、本当に勉強したことにはならないでしょう。

 仕事も同じです。職場で時間を過ごすだけでなく、心を込めて丁寧に取り組まなければ、したことにはならないような仕事があります。出勤したということと仕事をしたということは、まったく別のことがらです。

 離婚をするとき、形の上では双方が合意してハンコを押したとしても、たとえば、妻の方の今後の生活がなりたたなければどうでしょうか。ちゃんと納得してハンコを押したから何も問題はない、ですまされるでしょうか。

 新約聖書によりますと、イエスは「離縁状さえ書けば離縁しても構わない」という考え方を戒めました。たしかに、離縁され今は誰の妻でもないということを証明する離縁状がないと女性は再婚することができませんでした。おそらく、当時は、夫の身勝手で棄てられた女性は、再婚する以外に衣食住を確保することが困難だったのではないでしょうか。そして、離縁状があれば再婚の道が開かれます。

 けれども、じっさいは、すぐに再婚相手が見つかるわけではないでしょうし、再婚に頼らなければ生きていけない状態にして放り出すことにも問題があるのではないでしょうか。離縁状を書いたからそれでいいじゃないかは、あまりにも不誠実です。

 結果的に別れることになるとしても、おたがいに誠実に話し合い、なっとくしあい、女性がこれから生きていく道を保証することが必要なのではないでしょうか。

 イエスは離縁状をもたせれば離縁できるという規則を批判しました。さらには、規則よりも大切なものがある、それは、人と人を結び合わせる神の愛だ、と言うのです。

 ただし、それは、神が結び合わせたから離婚をしてはならないということではなく、人と人との間には神の愛があるのだから、人を気にいらなくなったら捨て去るような扱いをしてはならない、たとえ離婚をするにしても、神の愛があいだにあることをつねに意識しながら、相手を大切にし続けなければならない、というメッセージをわたしたちは汲み取るのが良いと思うのです。

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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(73)「イエスの言葉は、情報をもたらす以上に、人に働きかけます」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(73)「イエスの言葉は、情報をもたらす以上に、人に働きかけます」

 「大丈夫だよ! 明日の試合はきっと勝てるよ!」 試合の結果はどうであれ、この言葉は「ウソ」ではないでしょう。なぜなら、これは、試合結果のニュースでもなければ、試合前の予知でもないからです。そうではなくて、激励や鼓舞や慰撫の言葉なのです。

 「あなたはぼくの太陽です! あなたなしでは生きていけません。」 たとえその人が太陽ではなく、ただの人間であっても、あるいは、(悲しくても)その人なしでなんとか生きていくだろうとしても、この言葉も「ウソ」ではないでしょう。なぜなら、これは、その人についての情報でもなければ、話し手についての情報でもないからです。そうではなく、その人がいかに大切な存在かをなんとかわかってもらいたいという情熱の言葉なのです。

 「あなたは花のように美しい。花を見るとあなたを想います。」 この言葉は、たしかに、あなたについての情報であり、話し手のついての情報でもありますが、それにとどまらず、それ以上のことを含んでいます。これは、「あなたのことを大切に思っています、あなたを想うことはわたしの喜びです」というメッセージです。だから、どうしてください、ということでもないけれども、奏でるべきときが来たら奏でたい、あるいは、ずっと奏でないままにしておきたい、心に秘めた旋律です。

 言葉には、相手に情報をもたらす働きだけでなく、それに加えて、相手の心を響かせる働きがあります。

 新約聖書によれば、イエスは「信仰を持ち、疑わないならば、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる」と言いました。けれども、そんなことはありません。では、この言葉は「ウソ」なのでしょうか。

 イエスは、この言葉によって、情報を述べたのでもなければ、法則を伝えたのでもありません。そうではなく、じつは、「人生を信頼して生きていこう。自分の力を越えたことについては、神に委ねよう。人生そのものを神に委ねよう」と人々を招いているのではないでしょうか。

 イエスは、言葉の力によって、人びとを励まし、慰め、そのことで、人生に奇跡を導こうとしたのではないでしょうか。ただし、その言葉には、広告代理店によるコピーなどとはまったく違う、真理と深淵があるのではないでしょうか。

 (ちなみに、イエスは、病気の人を癒したり、嵐の湖を静めたりしましたが、じつは、山を動かして、海に飛び込ませるようなことはしたことがないのです。病気の癒しや嵐の湖の鎮静は、さらに言えば、旧約聖書でモーセがなした海を渡ることも、奇跡が起こらなくても、自然現象としてあり得ますが、山が海にまで移動するということは、短期間の自然現象としてはあり得ないので、さすがにそのような奇跡物語はないのでしょう。)

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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(72) 「実績や責任を問うことなく、今を生きるのに必要な糧を、神さまはすべての人に与えようとしています」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(72)

「実績や責任を問うことなく、今を生きるのに必要な糧を、神さまはすべての人に与えようとしています」

Aさんは、家族もなければお金もなく、高齢のうえに病気を抱えていて、働けません。働ける時は働いていたのですが、毎日の生活費を確保するのに精一杯で、老後の蓄えなどはできませんでした。けれども、この人が社会福祉制度を利用しようとするとき、「いや、こういうときのために備えていなかったのは、この人自身のせいだ。真面目に働いてきた人たちが納めてきた税金をこの人のために使う必要などない」という「自己責任論」を持ち出す人がいます。

はたしてそうでしょうか。現在の憲法や法律では、このような人は行政が支えることになっています。それは、憲法25条に「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」とあるとおりです。そして、この条文は、人類にとって普遍的な権利を言い表していますし、人間の普遍的な倫理観に基づいている、と考えられます。

就職に苦しむ若者や中高年がいます。けれども、残念なことに、「今の時代、仕事がないなんてことはない。死ぬ気で働こうと思えば、どんな仕事にでもつけるはずだ。選り好みをしながら、なかなか仕事が見つからない、などと言うのは、怠け者だ」という非難もまかり通っています。

はたしてそうでしょうか。過労死するような会社でも働けというのでしょうか。原発の被爆するようなもっとも危険なところでも働けというのでしょうか。(じっさい、もっとも貧しい日雇い労働者が放射線量が極めて高いところで働かされている、と聞いています)

適切な仕事が見つかるまでは、危険なところで無理に働く必要などなく、社会福祉や失業手当や就労支援などを利用するのは当然の権利です。そして、そのような支援を提供するのは国や行政の義務です。

聖書によれば、イエスがたとえ話をしました。ある農園主が人を雇います。夜明けに何人か雇いました。午前9時にまた雇いに行きます。さらに正午にも、午後3時にも行きます。その時点でも仕事に就けていなかった人びとを雇います。午後5時にも、同じような人びとを雇います。

午後6時に仕事が終了。賃金が払われます。最初に、午後5時に雇われた人に5千円支払われました。じつは、皆、この金額を約束されていたのですが、もっと前から働いていた人びとは、これを見て、自分たちはもっともらえると期待しました。けれども、皆、やはり5千円ずつでした。そこで、不満が吹き出てきます。

けれども、農園主は、「わたしは皆に同じように5千円ずつ払いたいのだ」と言いました。もしかしたら、5千円というのは、日雇い労働者がつぎの一日を生きていくのに必要な最低限のお金だったのかも知れません。農園主は、労働時間の長短に関わらず、誰もが次の日を生きていけるようにしたかったのではないでしょうか。

イエスは、神もこれと同じだ、と言います。神は、わたしたちの誰もが、実績とか責任とかを問われることなく、わたしたちを愛し、生かそうとしている、とイエスは強く感じていたのではないでしょうか。
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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(71)「もっとも大切なことは、自分が生きているこの世界と、この時代と、そして、自分の人生への信頼です」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(71)「もっとも大切なことは、自分が生きているこの世界と、この時代と、そして、自分の人生への信頼です」

ある親が子どものことで先輩に相談に行きました。「わたしは、あの子を小さいころから塾に行かせました。勉強ばかりでは駄目だと思い、スイミングにも通わせました。それだけでも足りないと思い、本もたくさん揃えました。早くからパソコンにも親しませました。英会話も習わせました。家族旅行にも連れて行きました。良い映画もたくさん見せました。これからも、何でもさせ、行きたい学校に進ませ、やりたい仕事に就かせたいと考えています。あの子は幸せな人生を歩むことができるでしょうか。豊かな人生を送ることができるでしょうか。わたしはそのためにどうしたらよいでしょうか」。

先輩は答えました。「あなたに欠けていることがみっつあります。ひとつは、そうしたことをすべて止めること。お子さんのためにあなたが何かしようと思わないこと。つぎに、あなたのお子さんを信頼し、あなたの子どもに任せること。そして、あなたのお子さんが生きる世界と歴史を信頼し、なんとかなる、と信じること」。

聖書によると、イエスのところに金持ちの青年が訪ねてきます。「先生、どうしたら、わたしは、神さまに顧みられますか。殺すな、不倫をするな、盗むな、嘘をつくな、父母を敬え、身内は大事にせよ。これらの掟はしっかりと守っています」。

イエスは答えました。「あなたに欠けていることがふたつあります。ひとつは、財産を売り払って、貧しい人びとにささげること。もうひとつは、わたしにつき従うこと」。

イエスは怪しい宗教の勧誘をしているのではありません。わたしたちの人生を根本で支えてくれるのは、自分で何とかしようとするさまざまな試みではなく、つまり、自分自身や自分の行為や思考ではなく、じつは、神であることを教えているのです。その神に委ねること、その神を信頼することを教えているのです。

もちろん、お金は必要です。最低限度+アルファは必要でしょう。それは経済生活を支えてくれます。けれども、人生そのものを支えてくれるわけではありません。

お金も人間関係も必要ですが、わたしたちにもっとも大切なことは、自分が生きているこの世界と、この時代と、そして、自分の人生への信頼ではないでしょうか。

不安なことはいろいろあるけれども、きっとなんとかなる、どうなるかはわからないけどどうにかなる、という信頼こそが、わたしたちの人生を支えてくれるのです。イエスはそれを神への信頼として言い表したのではないでしょうか。

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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(70)「神は慕わしくも厳しく、厳しくも慕わしいお方です」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(70)「神は慕わしくも厳しく、厳しくも慕わしいお方です」

 こんなやさしい人は他にはいないと思って一緒になったら、じつは、まったくやさしくない人だったということではなくても、じつは、きびしい面も持ち合わせている人だったということはないでしょうか。

 生徒や学生がとても伸び伸びしていると思って入学してみたら、じつは、かなり勉強するように仕向けられたり、部活もきつかったりりしたということはないでしょうか。

 人にも組織にもいくつかの顔があります。そして、それはかならずしも、表と裏というようなものではなく、どちらも真実の顔である場合もあるでしょう。

 聖書によりますと、イエスは、神は、畑を耕していたらたまたま掘り当てた宝、あるいは、良い真珠を探していた商人が見つけた最高の真珠のようなものだ、と言っています。そして、見つけた人は、全財産を売り払ってでも、それを買い求める、と言っています。

 偶然にしろ、探し求めた結果であるにしろ、神との出会いは、人生のなにものとも比べることのできない、決定的なもの、逃してはならないものだということでしょうか。神は、人間にとって、それほどに慕わしいものとして語られているように思います。

 けれども、この話に続いて、神の国とは、漁師が網にかかった良い魚と悪い魚をわけるようなものだとも言っています。悪い魚は捨てられるのです。悪人は燃え盛る炉の中に投げ込まれるとも言われています。厳しい話です。

 しかし、これは、良いことをした人は天国へ、悪いことをした人は地獄へ、というような単純なことではなくて、神は、わたしたちの中にある悪を抑え、善を導き出そうとしている、というようにも読めます。悪人をではなく、悪を世界から消し去ろうとしていると。わたしたちを善に導こうとしていると。

 たとえ、そう解釈したとしても、善に促され、善を求めて生きる道もまたきびしいことでしょう。

 あんなに慕わしかった神が、こんなに厳しかったと、と嘆く人もいるかもしれません。

 しかし、わたしたちは厳しさに促された方が、善を求めるというすばらしい道を歩めるとも考えられ、ならば、神の厳しさもまた、ありがたいものとならないでしょうか。

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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(69) 「こいつが悪い、と即断せずに、もっとじっくり考えてみよう」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(69)

「こいつが悪い、と即断せずに、もっとじっくり考えてみよう」

 ある講演会のことです。講師は皆に聞いてもらおうと一所懸命に話していました。そして、ほとんどの人は、講師の方を向いて、熱心に聞き入っていました。ところが、その中にひとり、話しも聞かずに、じっと下を見て、手をまったく止めることなくひたすら文字を書きつけている人がいました。講師は、こちらはこんなに気持ちを込めて話しをしているのに、この人はどうだ、心ここにあらず、人の話をちっとも聞かず、何やら自分の仕事のことでメモでもしているに違いない、あとで注意してやろう、と腹を立てたそうです。

 そして、講演のあと、ロビーで歓談の時がもたれました。講師を囲んで、何人かの人が集まっています。そこに、先ほどの講演中に下ばかり見ていた人もやってきました。質問がある、と言います。講師は「なんだ、人の話も聞かないで、自分の仕事のメモばかりしていたくせに」と言おうとしましたが、ふとその人が手に持っている紙を見ると、さきほどの自分の講演内容と質問がぎっしりと書かれていたのです。講師は、ああ、早合点して、その人を裁かなくて良かった、と冷や汗をかきながら、胸をなでおろしたそうです。

 わたしたちは、自分の思いや、自分の得たわずかばかりの情報で、人を判断してしまうことがあります。家族や仕事仲間、友人に対しても、勘違いをすることや、ひどい場合は、先入観を持つこともあります。それはこの人が悪い、と決めつけることがあります。あるいは、自分の意見が正しく、相手の考えは間違っている、と即座に切り捨てることがあります。

 社会に目を向けますと、わたしたちには、外国人は怪しい、悪いことをしているのではないか、精神疾患を持っている人は怖いのではないか、といった偏見があります。

 けれども、わたしたち人間は他の人間に対して早急な判断をくだすことができるのでしょうか。それは、じつは、判断ではなく、無知や無知が生み出す不安や恐れなどによる決めつけです。

 それは、考えているのではありません。けれども、本当は、わたしたちは考えなくてはならないのです。そして、考えるのには時間がかかります。時間をかけて考えつづけなければならないのです。

 聖書によりますと、イエスはこんなたとえ話をしました。ある農園の主人が良い麦の種を蒔きます。ところが、夜中に、悪党がやってきて、悪い麦の種も蒔いてしまいます。畑には、良い麦と悪い麦が混在し、しもべたちは、悪い麦を抜きましょうか、と言いますが、主人は、そのままにしておけ、良い麦も抜いてしまうかもしれないから、と言います。

 わたしたちも、先入観や偏見、十分な考えなしの拙速な決定で、人を良いとか悪いとか判断していないでしょうか。ことに、悪いと決めつけ、葬り去ろうとしていないでしょうか。

 時間をかけて考えれば、わたしたちは、人をひどいめに遭わせてしまったり、捨ててしまったりしなくてもすむかもしれないのです。


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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(68) 「最後に愛は勝つか? 事実ではないが、真実だ」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(68)

「最後に愛は勝つか? 事実ではないが、真実だ」

 「最後に愛は勝つ」という歌が流行りました。けれども、愛し続ければその思いはかならず相手に届き、相手もそれに応えてくれると、文字通りに信じている人は少ないのではないでしょうか。多くの人は、通じる愛もあれば通じない愛もあり、叶う愛もあれば叶わない愛もあることを、経験したり、知っていたりします。それにもかかわらず、この言葉から、勇気や慰めをもらったという人は珍しくないでしょう。

 文脈にも拠りますが、「きっとなんとかなる」「きっと道が開かれる」という言葉についても、似たようなことが言えるのではないでしょうか。何の根拠もないし、これまでの経験上から推測すればそんなことはなかろうという判断もありうるのですが、そうした「事実性」を越えて、こうした言葉が、わたしたちの力になり、人生や世界への信頼を高めてくれることがあります。

 「この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる」。憲法第十一条です。基本的人権が住民に十分に与えられている、人権が守られているなどとは、とうてい思えません。沖縄の米軍基地、ヘイトスピーチ、国会の運営法、政治家の発言などを見ますと、むしろ、人権侵害がいよいよ深刻になっていると考えられます。けれども、「侵すことのできない永遠の権利」としての「基本的人権」を「憲法が国民に保障する」という崇高な言葉と精神に触れますと、ぜひともこれを実現させなければならないという強い思いが湧いてきます。

 言葉には、現実、事実を越えた力があるのです。

 聖書によれば、病人を救ってくれとイエスに求めてきた人がいました。イエスが病人のもとに駆けつけようとすると、その人は「来てくれなくても良い、それよりも、あなたの言葉が欲しい。わたしは、言葉の強さを知っている」という意味のことを答えます。すると、イエスは、この人の言葉への信頼感をほめたとあります。

 聖書には「わたしはあなたとともにいる」という神の言葉が記されています。わたしはこの言葉に救われます。ひとりぼっち、自分には誰もいない、誰もわかってくれない、と苦しむわたしのたましいは、この言葉に癒されます。

 それは、心理的な安心、とも少し違います。もっと根本的なものです。自分が心理的には不安定なときでも、この言葉はゆるがずここにある、そういう癒しです。

 「わたしはあなたとともにいる」。この言葉は、事実というよりも、真実としてわたしを支えてくれます。神がわたしとともにいてくれる、というのは、超常現象でもいわゆる神秘体験でもなく、そのような事実を越えた、真実なのです。
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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(67)「レット・イット・ビー♪ ケセラ・セラ♪ そして、なんくるないさ」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(67)「レット・イット・ビー♪ ケセラ・セラ♪ そして、なんくるないさ」

 ビートルズのレット・イット・ビー♪。タイトルは「あるがままに」と訳されることもあるようですが、歌詞を見ますと、これは、困った時に、イエス・キリストのお母さん・マリアが現われて教えてくれる賢者の言葉、ということになっています。

 新約聖書を開きますと、こうあります。マリアは突然に神の子を宿したことに動転しますが、天使の言葉を聞いて、「お言葉どおり、この身に成りますように」と言います。レット・イット・ビーはこのフレーズに由来するのでしょう。こうなったら、もう、なるように任せます、ということでしょうか。

 「ケセラ・セラ」という歌があります。60年以上前にドリス・デイという人がヒットさせたそうです。日本語にも翻訳され、いろいろな人が歌ったようですが、アニメ映画『ホーホケキョ となりの山田くん』の挿入歌では「ケセラ・セラ なるようになる 未来は見えない お楽しみ」と合唱されています。 

 沖縄には「なんくるないさ~」という言葉があります。これは、なんとかなるさ、という意味ですが、無責任や諦めから「どうにでもなれ」と言うのではなくて、アメリカ占領下あらゆる努力も報われないような困難を背負っているにもかかわらず、諦めず希望を持ち続けようとする言葉だ、と説く人もいます。

 聖書によれば、イエスはこう言っています。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる」「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる」「明日のことまで思い悩むな」

 仕事、家族、人間関係、お金、体、病気。大人になれば、自分の力では解決できない問題が増えてきます。不安で、心配で、どうしようか、あれこれ案じたり、試したりしますが、どうにもなりません。

 あるいは、原発、戦争、政治家の不正のように、どうにかして止めなければならないのですが、どうやってもわたしたちの力が及ばないように思えてしまう大きな問題もあります。

 わたしたちもどうしたらよいか、考え抜きます。努力をします。けれども、同時に、神さまがきっと道を開いてくださる、神さまがきっと未来を創ってくださる、と信じ、委ねることも、きわめて大切だ、とイエスは教えてくれているのではないでしょうか。

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