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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(64)「わたしたちを本当に治めるものは為政者ではありません」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(64)「わたしたちを本当に治めるものは為政者ではありません」

 安倍政権が「共謀罪法」を強引に「成立」させました。今回だけではありません。何万人もの市民や野党政治家、学者らが連日激しく抗議をしたにもかかわらず、特定秘密保護法や安保法制も、暴力的な採決で「可決」させてきました。

 これだけではありません。県知事を先頭に、沖縄の人びとが長い苦難の歴史を背景に、米軍基地反対を訴え続けているのに、安倍政権は、辺野古や高江に新基地を「粛々」と造り続けます。官房長官の口から出るとき、この「粛」は、けっして「おごそか」「静か」ではなく、「粛清」の「粛」を思わせます。

 さらに、森友学園、加計学園、強姦容疑のジャーナリスト擁護など、この内閣には、濃灰色の疑惑、疑惑もみ消しの疑惑もつきまといます。

 政府とは、本来、主権者である住民から一時的に行政権を委託されているに過ぎず、行政権も立法権も司法権も住民の主権に由来し、従属するものであるのに、この政権は、自分たちが王であり、この世の支配者であるがごとく振舞っています。

 新約聖書によれば、イエスは「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言っています。ヨハネという人も、イエスに先立ってそう言っています。

 わたしたちが真に従属すべきものは何でしょうか。わたしたちを真に治めるものは何でしょうか。それは、王でもなければ皇帝でもなく、大統領でもなければ総理大臣でもありません。真理、真実、誠実、慈愛です。ひとりひとりの人間、ひとつひとつの生命、そして、生命の総体がもつ尊厳です。それを誰もが侵してはならない、何よりも尊ばなければならない、という崇高な精神です。

 「天の国は近づいた」ということは、神こそがまことの王だ、ということです。この世の為政者は、世界を真に治めるものではないということです。そして、この場合の神は、上に挙げた「真理、真実、誠実、慈愛、尊厳、崇高な精神」に限りなく近いものだと思います。

 どのような暴君が暴挙を続けようとも、わたしたちを真に治めるものが別に存在するのです。そして、その存在は、わたしたちの人間性に転換をせまります。「悔い改めよ」です。

 力による支配から愛による奉仕へ、独裁支配から民衆主権へ、私利私欲ではなく苦しむ者たちの救済へと意識を転換する。真の統治者はわたしたちにこれを促し、これへと導いてくれるのです。

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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(63)「幼子のように全体重を世界に委ねる」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(63)「幼子のように全体重を世界に委ねる」

 わたしたちは、いろいろなことが心配です。お給料が下がらないか、会社をクビにならないか、つぎの仕事が見つかるか、見つからなかったらその間どうやって生きて行こうか。これは、非常に深刻な問題です。お金がなければ、すぐに食べることができなくなりますし、住む家も失ってしまいます。あるいは、借金を抱えることになってしまいます。

 心配とはっきり区別しにくいのですが、わたしたちには不安や恐れもたくさんあります。地震や水害が起こらないか。戦争が始まらないか。病気にならないか。子どもたちがそれなりにゆたかに生きられるように進学や就職ができるか。高齢の親が毎日を穏やかに健康で過ごすことができるか。

 心配や不安に加えて、わたしたちは、満たされない思いや後悔の念も背負っています。自分の積み上げてきた成果や養ってきた実力が、先入観や組織の筋によって、あるいは、世間の空気によって、軽く見られている、顧みられていない、そういう悔しさや憤りが重く溜まっています。

 あるいは、あの人にあんなことを言わなければよかったとか、あの時あんなことをしなければ良かったとか、取り返しのつかないことをしてしまったとか、あの人を傷つけてしまったとか、という悔いの想いをも、わたしたちは心の底にヘドロのように沈めています。

 けれども、子どものころ、わたしたちは、もっと身軽でした。こんなに大きなもの、こんなにたくさんのものを背負っていませんでした。たしかに、子どもも、人との接触を通して、痛みや傷を重ねていくのですが、それでも、心配や不安や不満や後悔の念よりも、この世界は信頼できる、まわりの大人が助けてくれる、そういう信頼感が強く、悩むよりも、委ねることの方が勝っていたのではないでしょうか。

 聖書によりますと、神は大切なことを智者や賢者ではなく幼子に示した、とイエスは言いました。抱えている心配や恐れ、不満や後悔について、自分の考えに頼み過ぎて、思い煩うより、幼子のように、自分とまわりを信頼し、委ねること、とくに、神に委ねることの大切さを示そうとしたのではないでしょうか。

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。

 イエスは、ああしなさい、こうしなさい、あれもしなさい、これもしなさい、と人びとに強いませんでした。わたしたちは、自分や他者に、あれもこれも求めすぎて、疲れさせ、重荷をおわせてしまっているのとは、正反対です。

 あれが心配だから、ああしなければ、これが心配だからこうしなければ、とあれこれ思い悩むよりも、子どもの時のように、自分やまわりを信頼して、さらに言えば、生きている世界を信頼して、もうひとつ言えば、神に委ねて、重荷を軽くしよう、とイエスは招いているのではないでしょうか。

 神に委ねるとは、神がいるとかいないとか頭の中で考えることではなく、子どものとき、まわりのおとなや布団に全体重を任せた、あの信頼の感覚に近いのではないでしょうか。


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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(63)「幼子のように全体重を世界に委ねる」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(63)「幼子のように全体重を世界に委ねる」

 わたしたちは、いろいろなことが心配です。お給料が下がらないか、会社をクビにならないか、つぎの仕事が見つかるか、見つからなかったらその間どうやって生きて行こうか。これは、非常に深刻な問題です。お金がなければ、すぐに食べることができなくなりますし、住む家も失ってしまいます。あるいは、借金を抱えることになってしまいます。

 心配とはっきり区別しにくいのですが、わたしたちには不安や恐れもたくさんあります。地震や水害が起こらないか。戦争が始まらないか。病気にならないか。子どもたちがそれなりにゆたかに生きられるように進学や就職ができるか。高齢の親が毎日を穏やかに健康で過ごすことができるか。

 心配や不安に加えて、わたしたちは、満たされない思いや後悔の念も背負っています。自分の積み上げてきた成果や養ってきた実力が、先入観や組織の筋によって、あるいは、世間の空気によって、軽く見られている、顧みられていない、そういう悔しさや憤りが重く溜まっています。

 あるいは、あの人にあんなことを言わなければよかったとか、あの時あんなことをしなければ良かったとか、取り返しのつかないことをしてしまったとか、あの人を傷つけてしまったとか、という悔いの想いをも、わたしたちは心の底にヘドロのように沈めています。

 けれども、子どものころ、わたしたちは、もっと身軽でした。こんなに大きなもの、こんなにたくさんのものを背負っていませんでした。たしかに、子どもも、人との接触を通して、痛みや傷を重ねていくのですが、それでも、心配や不安や不満や後悔の念よりも、この世界は信頼できる、まわりの大人が助けてくれる、そういう信頼感が強く、悩むよりも、委ねることの方が勝っていたのではないでしょうか。

 聖書によりますと、神は大切なことを智者や賢者ではなく幼子に示した、とイエスは言いました。抱えている心配や恐れ、不満や後悔について、自分の考えに頼み過ぎて、思い煩うより、幼子のように、自分とまわりを信頼し、委ねること、とくに、神に委ねることの大切さを示そうとしたのではないでしょうか。

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。

 イエスは、ああしなさい、こうしなさい、あれもしなさい、これもしなさい、と人びとに強いませんでした。わたしたちは、自分や他者に、あれもこれも求めすぎて、疲れさせ、重荷をおわせてしまっているのとは、正反対です。

 あれが心配だから、ああしなければ、これが心配だからこうしなければ、とあれこれ思い悩むよりも、子どもの時のように、自分やまわりを信頼して、さらに言えば、生きている世界を信頼して、もうひとつ言えば、神に委ねて、重荷を軽くしよう、とイエスは招いているのではないでしょうか。

 神に委ねるとは、神がいるとかいないとか頭の中で考えることではなく、子どものとき、まわりのおとなや布団に全体重を任せた、あの信頼の感覚に近いのではないでしょうか。


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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(62)「ひとりひとりにあわせてささやかれる愛」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(62)「ひとりひとりにあわせてささやかれる愛」

 先日、ある家庭の食卓で、高校生の子どもがこんなことを言ったそうです。「今度の中間、やべえよ。ゲンブンとエイヒョーとコミュエー、サイテー」。

 意味がわかるでしょうか。「今度の中間、やべえよ」とは、「今度の中間テストの結果が不安だ」という意味のようです。「ゲンブンとエイヒョーとコミュエー」とは、「現代文」と「英語表現」と「コミュニケーション英語」のことだそうです。ゲンブンと聞くと、翻訳された文章を読んでいて「あれ、ここのところは、原文ではどうなっているのだろう」と考える、そういう場面を思い浮かべてしまうのですが。

 相手に何かを伝えようとするならば、相手にわかる言葉で語る努力をしなければならないでしょう。相手には理解できないような専門用語や略語はできるだけ避けたいものです。どうしても使う場合は、ていねいに説明する必要があるでしょう。

 あるいは、相手の背景、いま置かれている状況、どんなことで悩んでいるのか、どんなことを願っているのか、さらには、相手がこれまで生きてきた道のり。こうしたことも、配慮することが大事ではないでしょうか。

 聖書によりますと、十字架につけられ、死に、葬られ、けれども、復活し、人びとと再会したのち、イエスは天に昇ります。そして、残された人びとがひとつところに集っていたある日、暴風のような轟音が天から響きます。さらに、舌のような、炎のような形をしたものが、ひとりひとりの頭の上に降りて来ます。

 ひとりひとりの上に、神の愛、神のいのちの息吹が降臨して来て、それに満たされる。その経験を、このように表現し、それを聖霊と呼んだのです。

 すると、ひとりひとりがそれぞれ違った外国語を話すようになり、そこに居合わせたさまざまな国々出身の人びとが、それを通して、神のことを知るようになった、と聖書は告げています。

 これは、突然に、日本語や英語やドイツ語や中国語や朝鮮語が話されるようになったという怪奇現象というよりは、神の愛は、それを伝えられる人ひとりひとりにあわせて語られるということではないでしょうか。

 わたしたちも自分のペースでしゃべりまくるのではなく、聴き手に合わせて語りたいと思います。また、このわたしに、あわせてわかりやすく語りかけてくれる声がある、と意識して、人の言葉に耳を傾けたいと思います。
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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(61)「見させる者から、見遣る者へ」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(61)「見させる者から、見遣る者へ」

 子どもたちに見せたいものがあります。興味本位の見物ではありません。知ってほしいことがあるのです。被災地のこととか、子ども食堂のこととか、沖縄の米軍基地のこととか、あるいは、人生にはいろいろな選択肢や可能性があることとか。すばらしい文学や音楽や映画や演劇や書物があることとか、美しい風景があることとか。

 あるいは、人生をゆたかに生きること。人生を意味あるものとして、楽しいものとして生きる、そのことを知ってほしい、そのことを見せたい、見てほしいと思います。また、苦しいことがあってもひとつまたひとつ乗り越えていくことを、やさしい心、平和な心、正義の心をもって生きていくことを、そういう道を見てほしい、見せたいと思います。

 見せたいものを持つ人は、同時に、見る人でもあるかも知れません。親としては、自分の子どものことが、それなりによく見えます。見えているつもりです。一番よく目に入るのは、その時、その時の姿でしょう。朝登校していく姿、夕方帰ってきた姿、夕飯を食べる姿、中間テスト前夜の姿、そうしたものがよく見えます。

けれども、子どもより何十年か長く生きている親としては、もう少し長いスパンのものも、見るように心がけなければならないと思います。長く生きている分、それが見える位置にいるのですから。

子どもたちの毎日の姿、一つ一つの出来事だけでなく、高校生活全体とか、青年期全体とか、もっと言えば、人生全体とか、そういう大きな枠組みで見る必要があるでしょう。中学や高校で、どのテストの点が良かったとか悪かったとか、どの教科が得意だったとか不得意だったとか、そういうことも、人生全体の中で見たら、子どもが大人になって生きていくという枠組みの中で見たら、あまり大きな問題ではないことでしょう。いずれにせよ、親は子どもより、年齢的には高い所にいますから、そこから見えるものもあるように思います。

 わたしたちは、人に何かを見せようとする者であり、どうじに、人を見遣る者であるのではないでしょうか。

 聖書によりますと、イエスは人びとや弟子たちや聖書の読者に、目に見えない神を見せようとしました。「悔い改めよ。神の国は近づいた」というイエスの言葉の意味は、目に見えないけれども、じつは、神がたしかにここにおられる、神の愛がここにある、それに気づいてほしい、目に見えないけれどもここにこの世界の根源がある、世界を絶えず湧き出す泉がある、それを見てほしい、ということではないでしょうか。

 イエスのこのメッセージは、目に見える権力にこだわる権力者たちに憎まれ、十字架刑にされ、墓に葬り去られました。けれども、神はそのイエスを復活させ、イエスは「高い所」に昇った、と聖書は語ります。

 「高い所」とは、ひとりひとりを見守ることができる所、ひとりひとりの声を聞き、ひとりひとりに眼差しを向けることのできるところでありましょう。それは、実際は、ロケットで行くような、地上何メートルの上空ではなく、目に見えるこの世界に存在する「目に見えない」ところでありましょう。

 イエスは、目に見えないところをわたしたちに見せようとし、やがて、目に見えないところからわたしたちを見ていてくださるお方になられた、と新約聖書は告げているように思います。

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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(60)「いいねやすごいねをもらわなくても大丈夫です」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(60)「いいねやすごいねをもらわなくても大丈夫です」

 ある高校の先生が言っていました。四月になるとクラスがあたらしくなり、生徒同士の関係は、最初はぎこちなかったり、不自然だったりするそうです。ところが、五月、六月になり、「おちのない話」ができるようになると、それが、打ち解けてきた証拠になるとのことです。

 「おちのない話」とはどういうことでしょうか。皆、最初は、自分をアピールしようと、おもしろい話、受ける話をしようとするそうです。そして、それによって、いいねとか、すごいねとか、思われたいようです。ところが、打ち解けてくると、おもしろいと思われなくても、受けなくてもよくなくなり、この問題は難しいねとか、部活はしんどいねとか、とくにおもしろくもないし受ける必要もない、日常の話ができるようになるようです。けれども、打ち解けるまでは、おもしろいね、受けるね、いいね、すごいね、と認められようとする時期があるとのことです。

 話しは変わりますが、最近は、スマホの進化によって、手軽にきれいな写真を撮れるようになりました。庭、公園、街角を彩る花々や緑の木々、日光や町の光を反射する川、水色の空、おいしいランチやデザートなどを、パチッと写すことを日常の習慣にしている人も少なくないでしょう。

 わたしも、一日に一回から数回は、これはいいね、と思うものにレンズを向け、シャッターを押します。ひとつのものを何度か撮り直すことがあります。それから、それらを見て、よいものを選び、さらに、トリミングをしたり、明るさを調整したりします。SNS(インターネット)に投稿するためです。

 誰かに見てもらい、さらには、「いいね」や「すごいね」をもらいたいからです。そういう反応があると、すこしうれしくなったり、心がはずんだり、気持ちが明るくなったりします。満足、肯定のような気分も感じられます。

 聖書によりますと、イエスの時代にも、自分のことを人に見てもらい、ほめてもらいたい人がいたようです。わざわざ人が見ている前で、誰かに施しをするとか、いかにも信心深そうに祈ってみせるとか、そういう人がいたようです。

 イエスはそういう人は「既に報いを受けている」と言います。すでに、人の賞賛を受けている、と言います。このような言い方によって、イエスは、人を本当に支えるものは、他の人からの誉め言葉ではなく、神さまの愛だ、と説いているのではないでしょうか。

 さらには、その愛は、良い言動への褒美ではなく、無条件に贈られるプレゼントだと、イエスは深く感じていたのです。

 人からの承認を過度に求めるとわたしたちは苦しくなってしまいます。そういうとき、わたしたちの源であり、いのちと世界の源である存在が、わたしたちを無条件に肯定していてくれる、こういう考えに触れると、何か得るものがあるのではないでしょうか。

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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(59)「目に見えない神を垣間見るためのレンズ」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(59)「目に見えない神を垣間見るためのレンズ」

 「レ・ミゼラブル」(「ああ、無情」)という小説はとても有名ですが、文庫本で全四巻にわたる長編であり、ストーリーの展開や場面描写、登場人物のせりふ以外に、著者ヴィクトル・ユゴーの哲学や思想の展開が延々と続くので、作品そのものを読んだことのある人は、じつは、あまりいないそうです。

 ぼくも、同様で、映画で観たり、「レ・ミゼラブル」の「入門書」を読んだりはしましたが、小説を直接知っているわけではありません。プラトンとかカントとかマルクスとか、難しそうな思想家についても、おなじことで、彼らの著作を直接読んだことはなく、「哲学入門」「カント入門」といったものを通して、垣間見ただけです。

 聖書についても、似たようなことがあります。聖書は直接読んでもなかなかわかりにくい個所がいくつもあるので、やはり、聖書入門のような解説書が頼りになります。

 けれども、入門書の著者たちは、当然、小説も哲学書も聖書も、じかに、しかも、深く知っているのです。

 わたしたちは、自分が直接触れるのが難しかったり、直接理解できなかったりするようなことがらについては、わたしたちとそのものとのあいだに、眼鏡のような、レンズのようなものをおくことがあります。

 聖書を読みますと、イエスは、「神の子」と呼ばれたり、自分は「父」(神)と一体だとか、自分は(神への)「道」だとか、言ったりしています。

 イエスの「神の国が近づいた」「空の鳥、野の花を見よ」といった発言を見ますと、イエスは、神がこの世界にいきいきとして存在すること、また、動物や植物にいのちを与えていることを、まざまざと感じていたように思います。

 イエスは、わたしたちより、他の誰より、はるかに強く、神という目に見えないリアリティを感じ、知り、そして、それを、言葉やたとえ話、行動で、他の人々に伝えようとして、かなり成功したのではないでしょうか。

 イエスをレンズとして神に触れた人びとは、イエスを「神の子」と呼び、「道」と名付けた、と思うのです。

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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(58)「死者は遠くに行ってしまい、しばらく会えない、のではありません」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(58)「死者は遠くに行ってしまい、しばらく会えない、のではありません」

 死んでしまった人は、今いったい、どこにいるのでしょうか。わたしたちは、「あの人は遠いところに行ってしまった」とか、「空の高いところから見守っていてくれる」などと口にすることがあります。死者との距離を感じているのです。

 その人とはどうしたら会えるのでしょうか。わたしたちは、「天国でまたお会いしましょう、わたしたちもやがてそこに行きます」とか、「おかあさんはいまごろ天国でおとうさんと再会しているでしょうね」とか言ってみたりすることもあります。その日までは、しばらくおわかれ、という感覚があります。

 けれども、死んでしまった人たちが、じつは、すぐそばにいてくれる、と感じることもないでしょうか。なんだかいつも一緒にいてくれるような気がするんだよね、目には見えないけれども隣にいて支えていてくれると思うんだ。そういう気持ちになることもあります。

 死んだ人は遠くに行ってしまって、わたしたちが死ぬまで会えないのでしょうか。それとも、今も、一緒に生きつづけているのでしょうか。

 聖書によりますと、ある女性が兄弟に先立たれました。イエスが「あなたの兄弟は復活する」と言うと、彼女は「終わりの日に復活するのですね」と答えます。

 けれども、イエスは、そうではない、そんな遠い日のことではない、と伝えます。そして、今あなたの眼の前にいる「わたしこそが、復活であり、命である」と語るのです。

 イエスは、人のいのちの根源には神のいのちがあることを強く感じていました。そして、両者のつながり、さらには、自分のいのちと神のいのちのつながりを確信、いや、信頼していました。

 イエスは、神のいのちは死を越えて人とつながっていると信頼し、それは、一般論などではなく、まさに自分と神さまの関係において、そのことを強く信じていたのです。

 そのイエスにとって、死者もまた、神のいのちとつながっているのであり、神のいのちを通して、死者と生者は、何かの日を待たなくても、つまり、たった今も、しっかりつながっているのです。

 イエスは「復活」「命」という言葉によって、神と深く結ばれたいのちへの生き生きとした信頼を言い表したのではないでしょうか。

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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(57)「目に見えない、深いところにある、世界の根源を信頼する」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(57)「目に見えない、深いところにある、世界の根源を信頼する」

 たしかな証拠が欲しい。わたしたちは不安な問題を抱えているとき、その不安を解決してくれるようなたしかな証拠を求めます。

 子どもを高校、大学と進ませるには、受験料、塾費用、入学金や授業料、教材費、学校活動費、部活費など、百万単位のお金を必要としますが、これは、簡単に調達できるものではありません。

 ある調査によりますと、東京の私大生と高校生がいる埼玉の家庭では、1年間に800万円以上必要ですが、平均収入は550万円くらいだそうです。250万円はどうするのでしょうか。これを何とか補てんできる確証をつねに求めて、悩み、苦しみ、心をわずらわせるのですが、なかなか250万円をたしかなものにすることはできません。

 子どもたちの進学についても、今の学校でこれくらいの成績順位で、模擬試験でこれくらいの結果を出しているから、〇〇大学あたりなら合格できるのではないか、というたしかな感覚を持ちたいのですが、これもなかなかそういうわけには行きません。

 それでも、わたしたちは、いつまでも、目に見えるたしかな保障を追い求めてしまいます。そうではなく、なんとかなるさ、人生がなんとかしてくれるさ、世界がなんとかしてくれるさと、証拠なしに、けれども、深い信頼に基づいて、安心できたら、どんなにすばらしいことでしょうか。

 聖書によりますと、ある人びとがイエスのところにやってきて、「おまえは神の子だと言われているようだが、そのしるし、その証拠をみせてみろ」と言います。

 これに対して、イエスは「そんなしるし、そんな証拠は、よこしまな人間、神を信頼しない人間が求めるものだ」と答えます。

 この時代、神がいるとかいないとかはあまり問題ではなかったのではないでしょうか。むしろ、ここでは、神はいることが前提で、それに信頼するかどうかか重要だったのではないでしょうか。わたしたちが世界や歴史や人生の存在は疑わないけれども、それに信頼するかどうかが大事であるように。

 目に見えるしるしはないけれども、あるいは、感覚的にも、心理的にも、思考的にも、たしかなものはないけれども、それでも、世界と人生、言い換えますと、自分よりはるかに大きないのちに、生かされ、支えられているという根本的な、根源的な、深源的な信頼をイエスは示そうとしていたのではないでしょうか。

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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(56)「死んでしまった大切な人はお墓の中ではなく、すぐ近くに生きつづけています」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(56)「死んでしまった大切な人はお墓の中ではなく、すぐ近くに生きつづけています」

 「千の風になって」という歌が大ヒットしました。お墓の前で涙を流す人に向かって、死んだ人が、わたしはここにはいません、ここで眠っているのではありません、空の風に、あるいは、秋の光、冬の雪、朝の鳥、夜の星になって、あなたと同じ世界、さらに言えば、あなたのすぐ近くにいます、と歌うのです。

 NHKの朝のドラマの「ごちそうさん」では、おばあちゃんは死んだ後、糠床(ぬかどこ)となって、主人公に寄り添いつづけます。ゲゲゲの鬼太郎のお父さんも死んだ後、鬼太郎の目玉になって、鬼太郎を支え続けます。死者は、大切な人は、生きている人の、いわば、日常に生き続けているのです。

 聖書によりますと、イエスが死んで埋葬された翌々日、今で言えば、日曜日の朝、イエスと親しくイエスを大切に思っていた女性たちが墓に行きます。すると不思議なことに、墓穴を塞ぐ石がとりのけられ、さらには、天使があらわれ、こう言います。「あの方は、ここにはおられない」。

 では、どうしたのかというと、「復活した」と言います。そして、「ガリラヤに行った」と言います。ガリラヤとは、じつは、イエスが人びとと親しく過ごした日常の場でした。イエスはそこで人びとと話をし、飲み食いをともにしたのです。ガリラヤは日常生活の場でした。イエスが復活した、ということは、イエスが親しい人びと、大切な人びとの日常の場に生きている、ということを意味しているのです。

 女性たちが、これはとてもうれしいことだ、他の人びとにも伝えよう、と走り出すと、行く手にイエスがあらわれて、「おはよう」と言います。

 復活などと言えば、信じがたい超自然現象、非日常のことがらのはずなのに、イエスがさりげなく「おはよう」と声をかけてくるとは、なんとのどかなことでしょうか。

 「死んだ人が生き返った」などという話は、たしかに信じがたいのですが、わたしたちは、「おじいちゃんは天から見守っていてくれる」とか「おかあさんはもう目には見えないけれども、いっしょにいて支えていてくれる」などという感覚にはそんなに違和感はありません。イエスのまわりの人たちは、復活という言葉や物語で、どのような実感を伝えようとしたのでしょうか。

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