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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(70)「神は慕わしくも厳しく、厳しくも慕わしいお方です」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(70)「神は慕わしくも厳しく、厳しくも慕わしいお方です」

 こんなやさしい人は他にはいないと思って一緒になったら、じつは、まったくやさしくない人だったということではなくても、じつは、きびしい面も持ち合わせている人だったということはないでしょうか。

 生徒や学生がとても伸び伸びしていると思って入学してみたら、じつは、かなり勉強するように仕向けられたり、部活もきつかったりりしたということはないでしょうか。

 人にも組織にもいくつかの顔があります。そして、それはかならずしも、表と裏というようなものではなく、どちらも真実の顔である場合もあるでしょう。

 聖書によりますと、イエスは、神は、畑を耕していたらたまたま掘り当てた宝、あるいは、良い真珠を探していた商人が見つけた最高の真珠のようなものだ、と言っています。そして、見つけた人は、全財産を売り払ってでも、それを買い求める、と言っています。

 偶然にしろ、探し求めた結果であるにしろ、神との出会いは、人生のなにものとも比べることのできない、決定的なもの、逃してはならないものだということでしょうか。神は、人間にとって、それほどに慕わしいものとして語られているように思います。

 けれども、この話に続いて、神の国とは、漁師が網にかかった良い魚と悪い魚をわけるようなものだとも言っています。悪い魚は捨てられるのです。悪人は燃え盛る炉の中に投げ込まれるとも言われています。厳しい話です。

 しかし、これは、良いことをした人は天国へ、悪いことをした人は地獄へ、というような単純なことではなくて、神は、わたしたちの中にある悪を抑え、善を導き出そうとしている、というようにも読めます。悪人をではなく、悪を世界から消し去ろうとしていると。わたしたちを善に導こうとしていると。

 たとえ、そう解釈したとしても、善に促され、善を求めて生きる道もまたきびしいことでしょう。

 あんなに慕わしかった神が、こんなに厳しかったと、と嘆く人もいるかもしれません。

 しかし、わたしたちは厳しさに促された方が、善を求めるというすばらしい道を歩めるとも考えられ、ならば、神の厳しさもまた、ありがたいものとならないでしょうか。

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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(69) 「こいつが悪い、と即断せずに、もっとじっくり考えてみよう」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(69)

「こいつが悪い、と即断せずに、もっとじっくり考えてみよう」

 ある講演会のことです。講師は皆に聞いてもらおうと一所懸命に話していました。そして、ほとんどの人は、講師の方を向いて、熱心に聞き入っていました。ところが、その中にひとり、話しも聞かずに、じっと下を見て、手をまったく止めることなくひたすら文字を書きつけている人がいました。講師は、こちらはこんなに気持ちを込めて話しをしているのに、この人はどうだ、心ここにあらず、人の話をちっとも聞かず、何やら自分の仕事のことでメモでもしているに違いない、あとで注意してやろう、と腹を立てたそうです。

 そして、講演のあと、ロビーで歓談の時がもたれました。講師を囲んで、何人かの人が集まっています。そこに、先ほどの講演中に下ばかり見ていた人もやってきました。質問がある、と言います。講師は「なんだ、人の話も聞かないで、自分の仕事のメモばかりしていたくせに」と言おうとしましたが、ふとその人が手に持っている紙を見ると、さきほどの自分の講演内容と質問がぎっしりと書かれていたのです。講師は、ああ、早合点して、その人を裁かなくて良かった、と冷や汗をかきながら、胸をなでおろしたそうです。

 わたしたちは、自分の思いや、自分の得たわずかばかりの情報で、人を判断してしまうことがあります。家族や仕事仲間、友人に対しても、勘違いをすることや、ひどい場合は、先入観を持つこともあります。それはこの人が悪い、と決めつけることがあります。あるいは、自分の意見が正しく、相手の考えは間違っている、と即座に切り捨てることがあります。

 社会に目を向けますと、わたしたちには、外国人は怪しい、悪いことをしているのではないか、精神疾患を持っている人は怖いのではないか、といった偏見があります。

 けれども、わたしたち人間は他の人間に対して早急な判断をくだすことができるのでしょうか。それは、じつは、判断ではなく、無知や無知が生み出す不安や恐れなどによる決めつけです。

 それは、考えているのではありません。けれども、本当は、わたしたちは考えなくてはならないのです。そして、考えるのには時間がかかります。時間をかけて考えつづけなければならないのです。

 聖書によりますと、イエスはこんなたとえ話をしました。ある農園の主人が良い麦の種を蒔きます。ところが、夜中に、悪党がやってきて、悪い麦の種も蒔いてしまいます。畑には、良い麦と悪い麦が混在し、しもべたちは、悪い麦を抜きましょうか、と言いますが、主人は、そのままにしておけ、良い麦も抜いてしまうかもしれないから、と言います。

 わたしたちも、先入観や偏見、十分な考えなしの拙速な決定で、人を良いとか悪いとか判断していないでしょうか。ことに、悪いと決めつけ、葬り去ろうとしていないでしょうか。

 時間をかけて考えれば、わたしたちは、人をひどいめに遭わせてしまったり、捨ててしまったりしなくてもすむかもしれないのです。


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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(68) 「最後に愛は勝つか? 事実ではないが、真実だ」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(68)

「最後に愛は勝つか? 事実ではないが、真実だ」

 「最後に愛は勝つ」という歌が流行りました。けれども、愛し続ければその思いはかならず相手に届き、相手もそれに応えてくれると、文字通りに信じている人は少ないのではないでしょうか。多くの人は、通じる愛もあれば通じない愛もあり、叶う愛もあれば叶わない愛もあることを、経験したり、知っていたりします。それにもかかわらず、この言葉から、勇気や慰めをもらったという人は珍しくないでしょう。

 文脈にも拠りますが、「きっとなんとかなる」「きっと道が開かれる」という言葉についても、似たようなことが言えるのではないでしょうか。何の根拠もないし、これまでの経験上から推測すればそんなことはなかろうという判断もありうるのですが、そうした「事実性」を越えて、こうした言葉が、わたしたちの力になり、人生や世界への信頼を高めてくれることがあります。

 「この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる」。憲法第十一条です。基本的人権が住民に十分に与えられている、人権が守られているなどとは、とうてい思えません。沖縄の米軍基地、ヘイトスピーチ、国会の運営法、政治家の発言などを見ますと、むしろ、人権侵害がいよいよ深刻になっていると考えられます。けれども、「侵すことのできない永遠の権利」としての「基本的人権」を「憲法が国民に保障する」という崇高な言葉と精神に触れますと、ぜひともこれを実現させなければならないという強い思いが湧いてきます。

 言葉には、現実、事実を越えた力があるのです。

 聖書によれば、病人を救ってくれとイエスに求めてきた人がいました。イエスが病人のもとに駆けつけようとすると、その人は「来てくれなくても良い、それよりも、あなたの言葉が欲しい。わたしは、言葉の強さを知っている」という意味のことを答えます。すると、イエスは、この人の言葉への信頼感をほめたとあります。

 聖書には「わたしはあなたとともにいる」という神の言葉が記されています。わたしはこの言葉に救われます。ひとりぼっち、自分には誰もいない、誰もわかってくれない、と苦しむわたしのたましいは、この言葉に癒されます。

 それは、心理的な安心、とも少し違います。もっと根本的なものです。自分が心理的には不安定なときでも、この言葉はゆるがずここにある、そういう癒しです。

 「わたしはあなたとともにいる」。この言葉は、事実というよりも、真実としてわたしを支えてくれます。神がわたしとともにいてくれる、というのは、超常現象でもいわゆる神秘体験でもなく、そのような事実を越えた、真実なのです。
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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(67)「レット・イット・ビー♪ ケセラ・セラ♪ そして、なんくるないさ」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(67)「レット・イット・ビー♪ ケセラ・セラ♪ そして、なんくるないさ」

 ビートルズのレット・イット・ビー♪。タイトルは「あるがままに」と訳されることもあるようですが、歌詞を見ますと、これは、困った時に、イエス・キリストのお母さん・マリアが現われて教えてくれる賢者の言葉、ということになっています。

 新約聖書を開きますと、こうあります。マリアは突然に神の子を宿したことに動転しますが、天使の言葉を聞いて、「お言葉どおり、この身に成りますように」と言います。レット・イット・ビーはこのフレーズに由来するのでしょう。こうなったら、もう、なるように任せます、ということでしょうか。

 「ケセラ・セラ」という歌があります。60年以上前にドリス・デイという人がヒットさせたそうです。日本語にも翻訳され、いろいろな人が歌ったようですが、アニメ映画『ホーホケキョ となりの山田くん』の挿入歌では「ケセラ・セラ なるようになる 未来は見えない お楽しみ」と合唱されています。 

 沖縄には「なんくるないさ~」という言葉があります。これは、なんとかなるさ、という意味ですが、無責任や諦めから「どうにでもなれ」と言うのではなくて、アメリカ占領下あらゆる努力も報われないような困難を背負っているにもかかわらず、諦めず希望を持ち続けようとする言葉だ、と説く人もいます。

 聖書によれば、イエスはこう言っています。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる」「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる」「明日のことまで思い悩むな」

 仕事、家族、人間関係、お金、体、病気。大人になれば、自分の力では解決できない問題が増えてきます。不安で、心配で、どうしようか、あれこれ案じたり、試したりしますが、どうにもなりません。

 あるいは、原発、戦争、政治家の不正のように、どうにかして止めなければならないのですが、どうやってもわたしたちの力が及ばないように思えてしまう大きな問題もあります。

 わたしたちもどうしたらよいか、考え抜きます。努力をします。けれども、同時に、神さまがきっと道を開いてくださる、神さまがきっと未来を創ってくださる、と信じ、委ねることも、きわめて大切だ、とイエスは教えてくれているのではないでしょうか。

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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(66)「悪事に育ちかねない悪意が、わたしたちの心にあることに気付かされる」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(66)「悪事に育ちかねない悪意が、わたしたちの心にあることに気付かされる」

 国会議員が運転中の秘書の頭を叩いたり、身体特徴への侮辱など罵詈雑言を浴びせたりしたことが問題になっています。一度きりのことではなく、秘書を自分より下位の人間とみなした上での暴言が常習化していたようです。

 わたしたちはどうでしょうか。日常的にそのような悪態をついている人はそんなにいないとは思いますが、怒りが沸点に達してしまったときは、誹謗中傷の言葉を乱暴に吐いたり、相手の容姿や能力、履歴に言及したり、相手を見下す言葉を口にしたりすることがないでしょうか。この国会議員と同じように、誰かのことを自分より劣った人間と見ていないでしょうか。

 あるスポーツ団体の常務理事がパワハラとセクハラを認め、辞任しました。恋愛感情を満たすために女性部下を食事などに執拗に誘ったり、職務に関係のないメールを頻繁に送りつけたりしていたそうです。

 わたしたちはどうでしょうか。好感が持てる人とのコミュニケーションを求めて、理由をつけては、あるいは、さりげなさを装って、メールを出したり、SNSでコメントをつけたりしていないでしょうか。その場にいさせたいからと、食事に呼び出したりしていないでしょうか。そこには、セクハラの温床がないでしょうか。

 新約聖書によりますと、イエスは「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」「人に、ばか、愚か者と言う者は、人を殺す者と同じ裁きを受ける」と言っています。

 たしかに、法律は人の心の中を裁いてはいけません。誰かを憎み、それが高じて、殺したいと思って包丁を買っても、それを相手につきつけたり、ちらつかせたりしない限りは、罰せられてはなりません。

 けれども、憎しみが(きわめてごくまれなことですが)殺人の種になることがあります。人を差別する心はそれよりはもっと容易に暴言、暴行につながり、女性を見下す心理は簡単にセクハラ行為につながることでしょう。

 イエスは、わたしたちの中にある、人を殺したり傷つけたりする悪事の芽に気付かせてくれます。これは、殺人、傷害、傷つけを避ける、十分ではないにしても、有効な手段のひとつではないでしょうか。

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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(65)「味なし御飯にひとつまみの塩を」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(65)「味なし御飯にひとつまみの塩を」

 「東京砂漠」という言葉があります。都会の、いや、もしかしたら、人間社会全体の、殺伐としたさまを表しているのではないでしょうか。けれども、ある歌詞では、そんなところでも、「あなたがいれば生きていける」とうたっています。

 毎日の仕事や勉強は、そんなに楽しいものではありません。わたしは仕事の時間の多くをひとりで過ごし、孤独や味気なさを感じることがあります。慢性的にそうかも知れません。

 そんなとき、作業の種類によっては音楽を流したり、工程のあいまあいまにFacebookを覗いたり、お菓子をつまんだり、マグカップに手を伸ばしたりすることが、適度な潤いをもたらしてくれます。

 仕事や勉強、いや、生きていることはつらいけど、苦しい思いを抱えているけれども、「あなた」のことを思いながらなんとかやっているという人もいるでしょう。

 聖書によれば、イエスは人びとに「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」と言いました。無味乾燥な毎日、この世界に、味付けをする塩だ、と言うのです。真っ暗なこの世界の中で輝く一点のともしびだと言うのです。

 たしかにこの世界は暗いのですが、そこに小さくてもともしびがあれば、景色はまったく変わってきます。たしかに毎日の生活は淡泊、殺風景のですが、そこに一粒の塩があれば、とたんに味わいが出てきます。

 わたしたちは、誰かにとっての「あなた」になり、つかのまであっても、味付けをし、あかるさをもたらすことができたら、なんとすばらしいことでしょうか。

 イエスは弟子たちにそうなることを求めました。けれども、さらに言えば、弟子たちにとっては、自分たちがそうなる前から、神やイエスが、自分たちの塩であり、光であったのではないでしょうか。

 東京砂漠。目に見えないけれども一緒に歩んでくれる神が、イエスの言葉が、週に一度、聖書を読み、祈る礼拝の時間が、人生に深い味わいと一筋の光をもたらしてくれる、と信じる人びとがいます。

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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(64)「わたしたちを本当に治めるものは為政者ではありません」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(64)「わたしたちを本当に治めるものは為政者ではありません」

 安倍政権が「共謀罪法」を強引に「成立」させました。今回だけではありません。何万人もの市民や野党政治家、学者らが連日激しく抗議をしたにもかかわらず、特定秘密保護法や安保法制も、暴力的な採決で「可決」させてきました。

 これだけではありません。県知事を先頭に、沖縄の人びとが長い苦難の歴史を背景に、米軍基地反対を訴え続けているのに、安倍政権は、辺野古や高江に新基地を「粛々」と造り続けます。官房長官の口から出るとき、この「粛」は、けっして「おごそか」「静か」ではなく、「粛清」の「粛」を思わせます。

 さらに、森友学園、加計学園、強姦容疑のジャーナリスト擁護など、この内閣には、濃灰色の疑惑、疑惑もみ消しの疑惑もつきまといます。

 政府とは、本来、主権者である住民から一時的に行政権を委託されているに過ぎず、行政権も立法権も司法権も住民の主権に由来し、従属するものであるのに、この政権は、自分たちが王であり、この世の支配者であるがごとく振舞っています。

 新約聖書によれば、イエスは「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言っています。ヨハネという人も、イエスに先立ってそう言っています。

 わたしたちが真に従属すべきものは何でしょうか。わたしたちを真に治めるものは何でしょうか。それは、王でもなければ皇帝でもなく、大統領でもなければ総理大臣でもありません。真理、真実、誠実、慈愛です。ひとりひとりの人間、ひとつひとつの生命、そして、生命の総体がもつ尊厳です。それを誰もが侵してはならない、何よりも尊ばなければならない、という崇高な精神です。

 「天の国は近づいた」ということは、神こそがまことの王だ、ということです。この世の為政者は、世界を真に治めるものではないということです。そして、この場合の神は、上に挙げた「真理、真実、誠実、慈愛、尊厳、崇高な精神」に限りなく近いものだと思います。

 どのような暴君が暴挙を続けようとも、わたしたちを真に治めるものが別に存在するのです。そして、その存在は、わたしたちの人間性に転換をせまります。「悔い改めよ」です。

 力による支配から愛による奉仕へ、独裁支配から民衆主権へ、私利私欲ではなく苦しむ者たちの救済へと意識を転換する。真の統治者はわたしたちにこれを促し、これへと導いてくれるのです。

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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(63)「幼子のように全体重を世界に委ねる」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(63)「幼子のように全体重を世界に委ねる」

 わたしたちは、いろいろなことが心配です。お給料が下がらないか、会社をクビにならないか、つぎの仕事が見つかるか、見つからなかったらその間どうやって生きて行こうか。これは、非常に深刻な問題です。お金がなければ、すぐに食べることができなくなりますし、住む家も失ってしまいます。あるいは、借金を抱えることになってしまいます。

 心配とはっきり区別しにくいのですが、わたしたちには不安や恐れもたくさんあります。地震や水害が起こらないか。戦争が始まらないか。病気にならないか。子どもたちがそれなりにゆたかに生きられるように進学や就職ができるか。高齢の親が毎日を穏やかに健康で過ごすことができるか。

 心配や不安に加えて、わたしたちは、満たされない思いや後悔の念も背負っています。自分の積み上げてきた成果や養ってきた実力が、先入観や組織の筋によって、あるいは、世間の空気によって、軽く見られている、顧みられていない、そういう悔しさや憤りが重く溜まっています。

 あるいは、あの人にあんなことを言わなければよかったとか、あの時あんなことをしなければ良かったとか、取り返しのつかないことをしてしまったとか、あの人を傷つけてしまったとか、という悔いの想いをも、わたしたちは心の底にヘドロのように沈めています。

 けれども、子どものころ、わたしたちは、もっと身軽でした。こんなに大きなもの、こんなにたくさんのものを背負っていませんでした。たしかに、子どもも、人との接触を通して、痛みや傷を重ねていくのですが、それでも、心配や不安や不満や後悔の念よりも、この世界は信頼できる、まわりの大人が助けてくれる、そういう信頼感が強く、悩むよりも、委ねることの方が勝っていたのではないでしょうか。

 聖書によりますと、神は大切なことを智者や賢者ではなく幼子に示した、とイエスは言いました。抱えている心配や恐れ、不満や後悔について、自分の考えに頼み過ぎて、思い煩うより、幼子のように、自分とまわりを信頼し、委ねること、とくに、神に委ねることの大切さを示そうとしたのではないでしょうか。

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。

 イエスは、ああしなさい、こうしなさい、あれもしなさい、これもしなさい、と人びとに強いませんでした。わたしたちは、自分や他者に、あれもこれも求めすぎて、疲れさせ、重荷をおわせてしまっているのとは、正反対です。

 あれが心配だから、ああしなければ、これが心配だからこうしなければ、とあれこれ思い悩むよりも、子どもの時のように、自分やまわりを信頼して、さらに言えば、生きている世界を信頼して、もうひとつ言えば、神に委ねて、重荷を軽くしよう、とイエスは招いているのではないでしょうか。

 神に委ねるとは、神がいるとかいないとか頭の中で考えることではなく、子どものとき、まわりのおとなや布団に全体重を任せた、あの信頼の感覚に近いのではないでしょうか。


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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(63)「幼子のように全体重を世界に委ねる」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(63)「幼子のように全体重を世界に委ねる」

 わたしたちは、いろいろなことが心配です。お給料が下がらないか、会社をクビにならないか、つぎの仕事が見つかるか、見つからなかったらその間どうやって生きて行こうか。これは、非常に深刻な問題です。お金がなければ、すぐに食べることができなくなりますし、住む家も失ってしまいます。あるいは、借金を抱えることになってしまいます。

 心配とはっきり区別しにくいのですが、わたしたちには不安や恐れもたくさんあります。地震や水害が起こらないか。戦争が始まらないか。病気にならないか。子どもたちがそれなりにゆたかに生きられるように進学や就職ができるか。高齢の親が毎日を穏やかに健康で過ごすことができるか。

 心配や不安に加えて、わたしたちは、満たされない思いや後悔の念も背負っています。自分の積み上げてきた成果や養ってきた実力が、先入観や組織の筋によって、あるいは、世間の空気によって、軽く見られている、顧みられていない、そういう悔しさや憤りが重く溜まっています。

 あるいは、あの人にあんなことを言わなければよかったとか、あの時あんなことをしなければ良かったとか、取り返しのつかないことをしてしまったとか、あの人を傷つけてしまったとか、という悔いの想いをも、わたしたちは心の底にヘドロのように沈めています。

 けれども、子どものころ、わたしたちは、もっと身軽でした。こんなに大きなもの、こんなにたくさんのものを背負っていませんでした。たしかに、子どもも、人との接触を通して、痛みや傷を重ねていくのですが、それでも、心配や不安や不満や後悔の念よりも、この世界は信頼できる、まわりの大人が助けてくれる、そういう信頼感が強く、悩むよりも、委ねることの方が勝っていたのではないでしょうか。

 聖書によりますと、神は大切なことを智者や賢者ではなく幼子に示した、とイエスは言いました。抱えている心配や恐れ、不満や後悔について、自分の考えに頼み過ぎて、思い煩うより、幼子のように、自分とまわりを信頼し、委ねること、とくに、神に委ねることの大切さを示そうとしたのではないでしょうか。

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。

 イエスは、ああしなさい、こうしなさい、あれもしなさい、これもしなさい、と人びとに強いませんでした。わたしたちは、自分や他者に、あれもこれも求めすぎて、疲れさせ、重荷をおわせてしまっているのとは、正反対です。

 あれが心配だから、ああしなければ、これが心配だからこうしなければ、とあれこれ思い悩むよりも、子どもの時のように、自分やまわりを信頼して、さらに言えば、生きている世界を信頼して、もうひとつ言えば、神に委ねて、重荷を軽くしよう、とイエスは招いているのではないでしょうか。

 神に委ねるとは、神がいるとかいないとか頭の中で考えることではなく、子どものとき、まわりのおとなや布団に全体重を任せた、あの信頼の感覚に近いのではないでしょうか。


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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(62)「ひとりひとりにあわせてささやかれる愛」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(62)「ひとりひとりにあわせてささやかれる愛」

 先日、ある家庭の食卓で、高校生の子どもがこんなことを言ったそうです。「今度の中間、やべえよ。ゲンブンとエイヒョーとコミュエー、サイテー」。

 意味がわかるでしょうか。「今度の中間、やべえよ」とは、「今度の中間テストの結果が不安だ」という意味のようです。「ゲンブンとエイヒョーとコミュエー」とは、「現代文」と「英語表現」と「コミュニケーション英語」のことだそうです。ゲンブンと聞くと、翻訳された文章を読んでいて「あれ、ここのところは、原文ではどうなっているのだろう」と考える、そういう場面を思い浮かべてしまうのですが。

 相手に何かを伝えようとするならば、相手にわかる言葉で語る努力をしなければならないでしょう。相手には理解できないような専門用語や略語はできるだけ避けたいものです。どうしても使う場合は、ていねいに説明する必要があるでしょう。

 あるいは、相手の背景、いま置かれている状況、どんなことで悩んでいるのか、どんなことを願っているのか、さらには、相手がこれまで生きてきた道のり。こうしたことも、配慮することが大事ではないでしょうか。

 聖書によりますと、十字架につけられ、死に、葬られ、けれども、復活し、人びとと再会したのち、イエスは天に昇ります。そして、残された人びとがひとつところに集っていたある日、暴風のような轟音が天から響きます。さらに、舌のような、炎のような形をしたものが、ひとりひとりの頭の上に降りて来ます。

 ひとりひとりの上に、神の愛、神のいのちの息吹が降臨して来て、それに満たされる。その経験を、このように表現し、それを聖霊と呼んだのです。

 すると、ひとりひとりがそれぞれ違った外国語を話すようになり、そこに居合わせたさまざまな国々出身の人びとが、それを通して、神のことを知るようになった、と聖書は告げています。

 これは、突然に、日本語や英語やドイツ語や中国語や朝鮮語が話されるようになったという怪奇現象というよりは、神の愛は、それを伝えられる人ひとりひとりにあわせて語られるということではないでしょうか。

 わたしたちも自分のペースでしゃべりまくるのではなく、聴き手に合わせて語りたいと思います。また、このわたしに、あわせてわかりやすく語りかけてくれる声がある、と意識して、人の言葉に耳を傾けたいと思います。
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