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無力な者を選ぶ神さま [とっておきのお話]

 皆さん、こんにちは。私は林巌雄と申します。日本基督教団蒲田教会の牧師をしています。
 さて、ここ数年、「ナンバーワンよりオンリーワン」という言葉を良く耳にします。私たちは小学校の頃から、テストで何点取れるか、偏差値いくつの学校に合格できるか、というような尺度で測られて来ました。また、私たち自身も自分や他人をそのような尺度で測ってきました。まわりの人々との競争、まわりの人々と比べての優劣、ある意味で、それが全てでした。そして、このことに圧迫される思い、息が詰まる思いをしてきました。
 そういう時、「ナンバーワンよりオンリーワン」という言葉は、ある種の救いをもたらしてくれました。必ずしも一番にならなくてもいいんだよ、一番にならなくてもあなたにはあなたの良さがある、あなたにしかない良い点、それがあなたの大事なものであり、あなたのかけがえのなさなんだよ、他の人にはない、あなたにしかない良い点がきっとある、それがあなたのオンリーワンなんだよ、これは、たしかに、つねにまわりより優れた者になりなさいという命令よりも、はるかに優しいメッセージ、ちょっと昔の言葉で言えば、癒し系のメッセージだと思います。
 ところが、少しいじわるな見方をしますと、「ナンバーワンよりオンリーワン」という考えも、結局は、競争や優劣の原理に則っていると言えるような気もするのです。「一番にならなくてもいい、あなたにはあなたの良さがある」、あなたはかけがえのない存在なのだ。果たして、そうなのでしょうか。他の人とは違うわたしだけの良さ、それがなければ、わたしたちはかけがえのない存在になれないのでしょうか。一番ではないが私だけの良さ、他の人にはないオンリーワンの良いところがないと、わたしたちには存在する意味がないのでしょうか。「あなたにはあなただけの良さがある」、これは、その人の個性を尊重する言葉に聞こえますが、「良さ」「良い点」「他の人にはない」、このような観点にこだわるかぎりは、競争や優劣やナンバーワンの原理とあまり変わらないのではないでしょうか。
 話は変わりますが、私はキリスト教の本を二冊ほど翻訳しています。いずれも原本はスペイン語です。翻訳を出版しているなどと言うとすごい、語学が良くできるのだな、と思ってくださる方もおられるかも知れませんが、そうではないのです。
 なぜ、私が翻訳をするのか、ひとつは、聞く、話す、読む、書くという語学の能力のうち、私がかろうじて使えるものが「読む」ということだからです。聞くことは、ヒアリングは全くだめ。かつて、妻と二人で中南米を一年ほど旅しました。中南米のほとんどの地域ではスペイン語が公用語です。私よりスペイン語の語彙も文法力も低い・・・(私はまだこのような優劣思想に染まっています)・・・私よりスペイン語力の劣るはずと私が決めつけいていた妻が、中南米の人たちの話していることをポンポン理解し、楽しく談笑しているのに、私は聞き取りができず、さびしい思いをしました。ヒアリングは、おそらく、その場その場での力、その瞬間瞬間での直感力とも関係があるように思います。
 けれども、読むこと、外国語を読むことは、必ずしもその場その場での理解、瞬間瞬間での理解を求められません。書かれているもの、文字になっているものは、時間さえあれば、辞書を引き引き、ゆっくりゆっくり読めば良いのです。
 私には、瞬間瞬間の理解力がない、だから、その必要のない翻訳をする、これが翻訳をする理由のひとつです。もうひとつ、理由があります。読む場合でも、外国語の力のある人は、その原文のまま理解できますので、頭の中で日本語に訳す必要がありません。ところが、わたしは外国語を外国語で理解する力がない、外国語の文献を外国語のまま次から次へと読み飛ばす力がない、だから、せっかく苦労して読んだ外国語の本、辞書を引き引き、なんとか読んだ外国語の本は、日本語にして保存しておかなければもったいないという気持ちがあるのです。これが私が翻訳をする二番目の理由です。
 申し上げたいことは、私が翻訳をするのは、ヒアリングする力がないからと、本を速読する力がないからだ、ということです。
 けれども、そんなことを言ってみても、おまえは結局自分のある能力の不足を他の能力で補っているだけの話ではないのか、それもナンバーワンとかオンリーワンとかの思想と変わらないではないか、というご批判もあるかも知れません。それもごもっともです。
 ところが、今日の聖書の箇所を振り返ってみますと、「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです」とあります。
 神さまが「無学な者」や「無力な者」「無に等しい者」「身分の卑しい者」「見下げられている者」を選ばれる、これは、非常に大切なことだと思います。
 わたしたちは、やはり、学力によって、力によって、存在感によって、身分によって、尊敬すべき価値によって、自分をも他者をも判断するのではないでしょうか。たとえ、そういうナンバーワンの基準を棄てたつもりになっても、今度は、自分にも良いところがあるというオンリーワンの基準を設けるのではないでしょうか。
 けれども、自分に良いところがないと救われない、自分に自分らしさ、かけがえのなさがなければ生きている理由がない、という考え方もまた、苦しい考え方のように思います。
 ところが、神さまは、良いところなどなくても構わない、あなたにしかない取り柄などなくても構わない、いやむしろ、あなたの無力さが愛おしい、価値のないあなたが愛おしい、神さまはこのように言ってくださるのだと私は思います。
 神さまはそのままの私を受け入れてくださると良く言われますが、この「そのまま」という言葉もくせ者で、私はもっとはっきりと、神さまは「無力な者」「無学な者」「弱い者」「小さい者」こそを受け入れてくださるのだと聖書を読んでいて思います。
 それは、ひとつは、社会の中で痛んでいる人々、苦しんでいる人々、たとえば、心身の障害を持っているゆえに無価値とされる人々や外国人労働者のように様々な差別を受けている人々たち、このように社会において小さくされている人々、弱くされている人々を神さまはまっさきに愛されるということです。
 そして、もうひとつは、神さまは、わたしたちの中の最も弱いところ、わたしたちの性格の中で最も弱いところ、わたしたちの肉体の中で最も弱いところ、わたしたちの能力の中で最も低いと思われるところをこそ、神さまは一番大事なもの、一番愛おしいもの、最もかけがえのないものだと思ってくださるということです。
 学力、経済力・・・わたしたちは、力の支配する世界に生きています。その中で、神さまは、無力な者を選ばれる、神さまはわたしたちの最も力のないところを最も愛してくださる、そのようなメッセージを今日の聖書からともに受け取りたいと思います。


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