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つらいことがあっても歩きつづけるためのパン [中高生向けのお話]

中高生礼拝 20180128 ヨハネ6:27, 35 p.175 

 「つらいことがあっても歩きつづけるためのパン」
 
 おはようございます。今読んだ聖書の中で、イエスさまは、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と言われました。
 
 また、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」とも言われました。

 「命のパン」も、「永遠の命に至る食べ物」も、じつは、イエスさまご自身のことを指しているのです。「パン」という言葉も、「食べ物」という言葉も、「イエスさまの何か」をたとえている比喩だと考えるとよいでしょう。

 では、その「イエスさまの何か」とは何なのでしょうか。その前に、まず、朽ちる食べ物とは何かを考えてみましょう。

 わたしたちは、ときどき、不安になったり、孤独になったり、恐くなったり、悲しくなったり、虚しくなったりします。

 たとえば、学校の成績が悪くて、大学に行けるだろうか、と不安になったとします。その不安をなくすために、一生懸命に勉強をします。その結果、良い成績が出たとします。そうすると、たしかに、不安はなくなります。けれども、そのつぎの試験で、今度は悪い成績が出たとします。そうすると、また、不安になります。

 つまり、成績によって不安を解消しようとして、良い成績を出しても、それは、永遠ではなく、一時的なものなのです。おいしいはずのミカンが、時間が経つと、朽ちて、くさって食べられなくなってしまうのと同じです。

 もうひとつ例をあげますと、さびしさを紛らすために、SNSに投稿して、友達から「いいね」をたくさんもらうと、さびしくなくなったような気がしますが、そのつぎに、また投稿して、今度は「いいね」がほとんどないと、またさびしくなってしまいます。つまり、「いいね」をもらったときの、なんとなくうれしい気持ちも、一時的なもので、永遠のものではありません。

 イエスさまがおっしゃっている「朽ちる食べ物」とは、こういう意味だと思うのです。では、どうしたらよいのでしょうか。イエスさまは、ご自分はそのような朽ちる食べ物ではない、とおっしゃいます。

 わたしたちは、お腹が空いたら何かを食べてお腹を満たし、喉が渇いたら何かを飲んで渇きを潤しますが、すぐにまた、お腹が空きますし、喉が渇きます。ところが、イエスさまを食べ物や飲み物にたとえるならば、決して飢えることも、渇くこともないと言うのです。

 さきほど、不安、孤独、恐ろしさ、虚しさ、悲しさということを言いましたが、これらは、心の飢えであり、心の渇きということができるでしょう。

 イエスさまを信じても、不安や孤独や恐怖や虚しさや悲しさがなくなるわけではありませんが、それらを抱えながらも、なんとか生きていく支えにイエスさまはなってくださいます。イエスさまは朽ちないパンである、命のパンであるとは、そういう意味ではないでしょうか。

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