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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(72) 「実績や責任を問うことなく、今を生きるのに必要な糧を、神さまはすべての人に与えようとしています」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(72)

「実績や責任を問うことなく、今を生きるのに必要な糧を、神さまはすべての人に与えようとしています」

Aさんは、家族もなければお金もなく、高齢のうえに病気を抱えていて、働けません。働ける時は働いていたのですが、毎日の生活費を確保するのに精一杯で、老後の蓄えなどはできませんでした。けれども、この人が社会福祉制度を利用しようとするとき、「いや、こういうときのために備えていなかったのは、この人自身のせいだ。真面目に働いてきた人たちが納めてきた税金をこの人のために使う必要などない」という「自己責任論」を持ち出す人がいます。

はたしてそうでしょうか。現在の憲法や法律では、このような人は行政が支えることになっています。それは、憲法25条に「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」とあるとおりです。そして、この条文は、人類にとって普遍的な権利を言い表していますし、人間の普遍的な倫理観に基づいている、と考えられます。

就職に苦しむ若者や中高年がいます。けれども、残念なことに、「今の時代、仕事がないなんてことはない。死ぬ気で働こうと思えば、どんな仕事にでもつけるはずだ。選り好みをしながら、なかなか仕事が見つからない、などと言うのは、怠け者だ」という非難もまかり通っています。

はたしてそうでしょうか。過労死するような会社でも働けというのでしょうか。原発の被爆するようなもっとも危険なところでも働けというのでしょうか。(じっさい、もっとも貧しい日雇い労働者が放射線量が極めて高いところで働かされている、と聞いています)

適切な仕事が見つかるまでは、危険なところで無理に働く必要などなく、社会福祉や失業手当や就労支援などを利用するのは当然の権利です。そして、そのような支援を提供するのは国や行政の義務です。

聖書によれば、イエスがたとえ話をしました。ある農園主が人を雇います。夜明けに何人か雇いました。午前9時にまた雇いに行きます。さらに正午にも、午後3時にも行きます。その時点でも仕事に就けていなかった人びとを雇います。午後5時にも、同じような人びとを雇います。

午後6時に仕事が終了。賃金が払われます。最初に、午後5時に雇われた人に5千円支払われました。じつは、皆、この金額を約束されていたのですが、もっと前から働いていた人びとは、これを見て、自分たちはもっともらえると期待しました。けれども、皆、やはり5千円ずつでした。そこで、不満が吹き出てきます。

けれども、農園主は、「わたしは皆に同じように5千円ずつ払いたいのだ」と言いました。もしかしたら、5千円というのは、日雇い労働者がつぎの一日を生きていくのに必要な最低限のお金だったのかも知れません。農園主は、労働時間の長短に関わらず、誰もが次の日を生きていけるようにしたかったのではないでしょうか。

イエスは、神もこれと同じだ、と言います。神は、わたしたちの誰もが、実績とか責任とかを問われることなく、わたしたちを愛し、生かそうとしている、とイエスは強く感じていたのではないでしょうか。
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