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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(62)「ひとりひとりにあわせてささやかれる愛」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(62)「ひとりひとりにあわせてささやかれる愛」

 先日、ある家庭の食卓で、高校生の子どもがこんなことを言ったそうです。「今度の中間、やべえよ。ゲンブンとエイヒョーとコミュエー、サイテー」。

 意味がわかるでしょうか。「今度の中間、やべえよ」とは、「今度の中間テストの結果が不安だ」という意味のようです。「ゲンブンとエイヒョーとコミュエー」とは、「現代文」と「英語表現」と「コミュニケーション英語」のことだそうです。ゲンブンと聞くと、翻訳された文章を読んでいて「あれ、ここのところは、原文ではどうなっているのだろう」と考える、そういう場面を思い浮かべてしまうのですが。

 相手に何かを伝えようとするならば、相手にわかる言葉で語る努力をしなければならないでしょう。相手には理解できないような専門用語や略語はできるだけ避けたいものです。どうしても使う場合は、ていねいに説明する必要があるでしょう。

 あるいは、相手の背景、いま置かれている状況、どんなことで悩んでいるのか、どんなことを願っているのか、さらには、相手がこれまで生きてきた道のり。こうしたことも、配慮することが大事ではないでしょうか。

 聖書によりますと、十字架につけられ、死に、葬られ、けれども、復活し、人びとと再会したのち、イエスは天に昇ります。そして、残された人びとがひとつところに集っていたある日、暴風のような轟音が天から響きます。さらに、舌のような、炎のような形をしたものが、ひとりひとりの頭の上に降りて来ます。

 ひとりひとりの上に、神の愛、神のいのちの息吹が降臨して来て、それに満たされる。その経験を、このように表現し、それを聖霊と呼んだのです。

 すると、ひとりひとりがそれぞれ違った外国語を話すようになり、そこに居合わせたさまざまな国々出身の人びとが、それを通して、神のことを知るようになった、と聖書は告げています。

 これは、突然に、日本語や英語やドイツ語や中国語や朝鮮語が話されるようになったという怪奇現象というよりは、神の愛は、それを伝えられる人ひとりひとりにあわせて語られるということではないでしょうか。

 わたしたちも自分のペースでしゃべりまくるのではなく、聴き手に合わせて語りたいと思います。また、このわたしに、あわせてわかりやすく語りかけてくれる声がある、と意識して、人の言葉に耳を傾けたいと思います。
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