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聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(61)「見させる者から、見遣る者へ」 [聖書の話を身近な経験に置き替えてみた]

聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(61)「見させる者から、見遣る者へ」

 子どもたちに見せたいものがあります。興味本位の見物ではありません。知ってほしいことがあるのです。被災地のこととか、子ども食堂のこととか、沖縄の米軍基地のこととか、あるいは、人生にはいろいろな選択肢や可能性があることとか。すばらしい文学や音楽や映画や演劇や書物があることとか、美しい風景があることとか。

 あるいは、人生をゆたかに生きること。人生を意味あるものとして、楽しいものとして生きる、そのことを知ってほしい、そのことを見せたい、見てほしいと思います。また、苦しいことがあってもひとつまたひとつ乗り越えていくことを、やさしい心、平和な心、正義の心をもって生きていくことを、そういう道を見てほしい、見せたいと思います。

 見せたいものを持つ人は、同時に、見る人でもあるかも知れません。親としては、自分の子どものことが、それなりによく見えます。見えているつもりです。一番よく目に入るのは、その時、その時の姿でしょう。朝登校していく姿、夕方帰ってきた姿、夕飯を食べる姿、中間テスト前夜の姿、そうしたものがよく見えます。

けれども、子どもより何十年か長く生きている親としては、もう少し長いスパンのものも、見るように心がけなければならないと思います。長く生きている分、それが見える位置にいるのですから。

子どもたちの毎日の姿、一つ一つの出来事だけでなく、高校生活全体とか、青年期全体とか、もっと言えば、人生全体とか、そういう大きな枠組みで見る必要があるでしょう。中学や高校で、どのテストの点が良かったとか悪かったとか、どの教科が得意だったとか不得意だったとか、そういうことも、人生全体の中で見たら、子どもが大人になって生きていくという枠組みの中で見たら、あまり大きな問題ではないことでしょう。いずれにせよ、親は子どもより、年齢的には高い所にいますから、そこから見えるものもあるように思います。

 わたしたちは、人に何かを見せようとする者であり、どうじに、人を見遣る者であるのではないでしょうか。

 聖書によりますと、イエスは人びとや弟子たちや聖書の読者に、目に見えない神を見せようとしました。「悔い改めよ。神の国は近づいた」というイエスの言葉の意味は、目に見えないけれども、じつは、神がたしかにここにおられる、神の愛がここにある、それに気づいてほしい、目に見えないけれどもここにこの世界の根源がある、世界を絶えず湧き出す泉がある、それを見てほしい、ということではないでしょうか。

 イエスのこのメッセージは、目に見える権力にこだわる権力者たちに憎まれ、十字架刑にされ、墓に葬り去られました。けれども、神はそのイエスを復活させ、イエスは「高い所」に昇った、と聖書は語ります。

 「高い所」とは、ひとりひとりを見守ることができる所、ひとりひとりの声を聞き、ひとりひとりに眼差しを向けることのできるところでありましょう。それは、実際は、ロケットで行くような、地上何メートルの上空ではなく、目に見えるこの世界に存在する「目に見えない」ところでありましょう。

 イエスは、目に見えないところをわたしたちに見せようとし、やがて、目に見えないところからわたしたちを見ていてくださるお方になられた、と新約聖書は告げているように思います。

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